皇居東御苑(旧江戸城本丸跡)
皇居東御苑(旧江戸城本丸跡)
4
9:00~16:00
月曜日
休業
火曜日
9:00 - 16:00
水曜日
9:00 - 16:00
木曜日
9:00 - 16:00
金曜日
休業
土曜日
9:00 - 16:00
日曜日
9:00 - 16:00
入場チケット
¥1,000
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皇居東御苑(旧江戸城本丸跡)を満喫するイチ押しの方法
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エリア
住所
エリア: 銀座、東京 日本橋
日本を代表する繁華街であるとともに、創業100年以上の老舗店が残る下町でもある地域。日本橋から銀座にかけては百貨店や高級ブティックが並び、街歩きを楽しみながらのショッピングが定番です。海外資本のラグジュアリーホテルが競って進出しており、実力派シェフが腕をふるう料理は世界でもトップレベル。周辺の商業施設にも評判のレストランが多く入っています。また銀座は高級クラブが集まる夜の社交場としても有名です。
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4.0
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とても悪い
16
Tinytot2016
群馬県11,699件の投稿
2023年10月 • 友達
妹のボランティアガイドで皇居東御苑を一周した
大手門から入り 枡形の検問所で緊張 百人番所には根来組、伊賀組、甲賀組、廿五騎組の4組が交代で護衛しており常に同心が100人いたことから百人番所と呼ばれる 江戸城天守閣は3度建てられたが1657年の大火で焼失した後は天守台石垣が築き直されただけで再建されなかった 大火で苦しんでいる民を思ってとか
昭和天皇御印は若竹 竹林には日本中国の13種の竹笹類が植えられている
二の丸庭園は九代将軍家重の時代の庭絵図面をもとに復元されている
都道府県の木では出身地の木を探したくなるだろう
昭和天皇の皇后の御還暦祝いに建てられた桃華楽堂
壁のデザインは春夏秋冬
富士見多聞 は多目的施設の長屋 正面は分からない作り
石垣の大きさも圧倒されるがその積みかた 高石垣、算木積み、土塁式は先人の知恵と工夫に驚かされる
松の廊下跡や大奥跡 大奥からはアスファルトの色が変化していた
自然の中に江戸城を思い起こさせる沢山のものがあり入場無料とは思えない素晴らしい場所だ
投稿日:2023年11月1日
この口コミはTripadvisor LLCのものではなく、メンバー個人の主観的な意見です。 トリップアドバイザーでは、投稿された口コミの確認を行っています。
くらくらくらら
東京都心, 東京都217件の投稿
2023年9月 • 友達
無料で入場ができるとても気持ちの良い御苑です。
上に登って行くと、芝生が一面に広がっており、ストレッチや瞑想などもすることができます。
春と秋は気候がちょうどよいので、芝生の上で、緑を感じながら、リラックスすることができます。
海外の方も多く訪れています。
土日でも比較的混雑なく入ることができます。
上に登って行くと、芝生が一面に広がっており、ストレッチや瞑想などもすることができます。
春と秋は気候がちょうどよいので、芝生の上で、緑を感じながら、リラックスすることができます。
海外の方も多く訪れています。
土日でも比較的混雑なく入ることができます。
投稿日:2023年10月3日
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satoko27
神戸市, 兵庫県4,963件の投稿
2023年6月 • 一人
新幹線に乗るまで時間があり、梅雨の合間の青空を楽しもうと皇居東御苑へ。大手門で手荷物検査がありますが無料で入場出来ます。江戸城本丸、二の丸、三の丸、大奥跡などが自然豊かな皇居付属庭園に整備されています。天守台の石垣や富士見櫓など江戸城の遺構が残っていますが、中央の本丸、大奥跡は大芝生になり周りに樹木やバラ園、桜、菖蒲など四季折々のお花が楽しめます。訪れた時は丁度紫陽花が見頃。本丸休憩所には天守復元模型が見られ、限定の小銭入れなども売ってます。真夏のような陽射しに丸の内の高層ビル群を背景の散策も汗だくで、気がつくと1時間半位経ってました。
投稿日:2023年9月13日
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ewalker10900
横浜市, 神奈川県8,572件の投稿
2023年8月 • 一人
大手町に商用で来たので
大手門から入場。
皇宮警察の手荷物検査が有りますが、無料で入れます。
元々江戸城本丸のあった遺構です。
天守台、大奥、中奥、表や松の廊下跡など.今は建物は現存してませんが、その広さを感じれる広場になってます。百人番所は昔の遺構か?
大手門から入場。
皇宮警察の手荷物検査が有りますが、無料で入れます。
元々江戸城本丸のあった遺構です。
天守台、大奥、中奥、表や松の廊下跡など.今は建物は現存してませんが、その広さを感じれる広場になってます。百人番所は昔の遺構か?
投稿日:2023年8月10日
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hal
品川区, 東京都1,967件の投稿
2023年8月 • カップル・夫婦
皇居は手荷物検査はあるが、中を突っ切れるので竹橋から東京駅の大手門まで徒歩で近い。
緑も多くやすらぐ。観光客だらけで大手門のお店はアイスなど購入する人が。ポストもあり、ここで出したら消印は皇居の番地なんだろうなぁ。
緑も多くやすらぐ。観光客だらけで大手門のお店はアイスなど購入する人が。ポストもあり、ここで出したら消印は皇居の番地なんだろうなぁ。
投稿日:2023年8月6日
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junjun
東京都心, 東京都26,400件の投稿
2023年8月
千代田区千代田の「皇居」にある「皇居東御苑」についての情報を発信していきます。「皇居東御苑」を訪れたのは2023年8月1日です。「皇居東御苑」への出入門は、大手町駅方面には「大手門」、竹橋駅方面には「平川門」、そして平川濠を挟み「北桔橋門」の三箇所ありますが、地下鉄各線の「大手町駅」のC13a出口を利用するのが最短で分かりやすい方法です。「大手町駅」のC13a出口ると左手に「大手門」が見えます。
「皇居東御苑」の歴史を紐解いてみると、「皇居東御苑」は、「皇居造営」の一環として、昭和35年(1960年)1月29日の閣議決定に基づき、皇居東地区の「旧江戸城本丸」、「二の丸」及び「三の丸」の一部を「皇居附属庭園」として整備することとなりました。造営の工事は、昭和36年(1961年)に着工し、昭和43年(1968年)9月に完成しました。「皇居東御苑」は、面積約21万㎡の庭園で、昭和43年(1968年)10月1日から宮中行事に支障のない限り一般に公開されるようになりました。
「皇居東御苑」の地区ごとの特徴を大まかに見てみると、「本丸地区」には、「天守台」を望むように中央部には広々とした芝生が広がり、それを囲むように、「バラ園」、「竹林」、「果樹古品種園」、「桜の島」、「野草の島」、「茶畑」など場所ごとに特徴づけられた緑地帯があります。また、「桃華楽堂」、「富士見櫓」などの建造物もあります。「二の丸地区」には、「百人番所」、復元された日本庭園(二の丸庭園)と「二の丸雑木林」、「新雑木林」、「都道府県の木」、「菖蒲田」などがあります。「三の丸地区」には、「大手門」、「三の丸尚蔵館」などがあります。
それでは、早速、「皇居東御苑」へ入園したいと思います。今回は、「大手門」から「皇居東御苑」へ入園しました。
《「皇居東御苑」お薦めの見学巡路》
①「大手高麗門」⇒②「大手門」⇒③「三の丸尚蔵館」⇒④「大手三之門跡」⇒⑤「同心番所」⇒⑥「中之門跡」⇒⑦「大番所」⇒⑧「中雀門跡」⇒⑨「果樹古品種園」⇒⑩「野草の島」⇒⑪「富士見櫓」⇒⑫「松の大廊下跡」⇒⑬「富士見多聞」⇒⑭「石室」⇒⑮「竹林」⇒⑯「桜の島」「本丸大芝生」「茶畑」「バラ園」⇒⑰「天守台」⇒⑱「北桔橋門」⇒⑲「桃華楽堂」⇒⑳「大奥跡」⇒㉑「本丸休憩所」⇒㉒「江戸城天守復元模型」⇒㉓「展望台」⇒㉔「ツバキ園」⇒㉕「楽部」楽部庁舎⇒㉖「汐見坂」⇒㉗「白鳥濠」⇒㉘「書陵部」書陵部庁舎⇒㉙「梅林坂」⇒㉚「平川門」⇒㉛「都道府県の木」⇒㉜「諏訪の茶屋」⇒㉝「二の丸庭園」⇒㉞「菖蒲田」⇒㉟「二の丸雑木林」と「新雑木林」
「大手門」から入るには、まず、「大手高麗門」前で警察による手荷物、ボディーチェックを受け、入場できます。「江戸城」の正門にあたるのが「大手門」です。「大手」とは、「追手」のことで、裏側を「搦手」と呼びます。「江戸城」の「大手門」をくぐったところが「三の丸」ですが、大正8年(1919年)に、宮内省の諸施設を建設する際、「桔梗門」から「天神濠」に至る「旧二の丸」と「三の丸」の間の濠約3.9haを埋めたため、「三の丸」と「二の丸」の境が判然としなくなっています。主に「大手門」から、将軍への謁見のために諸大名が登城しました。当時の全国300もの大名ほか諸侯は、この「大手門」から入城し、「三の丸」、「二の丸」を経て「本丸」へと登城しました。つまりは参勤交代の大名も将軍に拝謁するための正規なルートとして、この「大手門」から入城したわけです。
「江戸城大手門」の歴史を紐解いてみると、慶長11年(1606年)に江戸城が縄張りされ、「江戸城大手門」は、翌慶長12年(1607年)に、築城の名手である「藤堂高虎」によって1年3ヶ月ほどかけて築かれました。そして、現在のような堅固な「桝形形式」の城門は、元和6年(1620年)の江戸城修復に際し、「伊達正宗」、「酒井忠世」らにより完成ました。「江戸城大手門」は、「高麗門」と「渡櫓型の櫓門」で構成された典型的な「枡形門」の形式の門です。ちなみに、「桝形形式」とは、石垣を四角く巡らして直進できない通路を設けた門のことです。そして、その大きさは、「渡櫓」の「櫓門」は桁行22間(40m)、梁間4間2尺(7.9m)という大規模なものでした。「渡櫓門」には長大な武器庫である建物を載せていました。そして、ここでの必見のポイントは、枡形内に「渡櫓」の屋根を飾っていた「鯱」が展示されています。刻印に「明暦三丁酉」とあり、明暦3年(1657年)の「明暦の大火」(振袖火事)で焼失した後、万治2年(1659年)に「大手門」が再建されたときのものです。昭和20年(1945年)の空襲で門は焼け落ちましたが、「鯱」だけが現存しているのです。
「大手門」を抜けると、右手に「三の丸尚蔵館」があります。残念ながら、「三の丸尚蔵館」は、新施設への移行工事のため休館中です。再開に関しては、一部開館は令和5年(2023年)11月3日(金)、そして、全面開館は令和8年(2026年)度を予定しているそうです。「三の丸尚蔵館」は、平成5年(1993年)に「皇居東御苑」に開館したかつての皇室所有の「御物」を収蔵展示するミュージアムです。「天皇家」から寄贈された絵画、書、工芸品などの美術品類に加え、「故秩父宮妃」のご遺贈品、「香淳皇后」のご遺品、「故高松宮妃」のご遺贈品、「三笠宮家」のご寄贈品など1万点近くを収蔵されています。ちなみに、「御物」とは、皇室の私有品として天皇家に伝来した美術品や古文書などの所蔵品のことです。
「三の丸尚蔵館」から先に進むと、「大手三之門跡」があります。この「大手三之門」は、寛永13年(1635年)に、伊勢津藩主「藤堂高次」が枡形の三方を「多聞櫓」で囲む江戸城唯一の門である「大手三の門」を築きました。江戸時代には、「下乗橋」が架かっていたそうです。つまり、現在の「大手休憩所(売店)」は、当時の濠の中に位置していたことになります。また、警護の与力や同心が詰めた「同心番所」も「下乗橋」の手前にあったそうです。かつては「大手三之門」の前に濠があって「三の丸」と「二の丸」を分けていました。ちなみに、「大手三之門」を「下乗門」ともいうのは、この先の「二の丸」へ駕籠に乗って入城できるのは、「尾張藩」、「紀州藩」、「水戸藩」の「徳川御三家」の藩主だけだったからです。「御三家以外」の大名はここで駕籠を降りなければならなかったため、「下乗」の高札が立てられていたそうです。
「大手三之門跡」のすぐ先には、「同心番所」があります。かつて、「江戸城」の城内には数十メートルごとに「同心番所」、「百人番所」、「大番所」という3ヶ所の番所が並んで、厳重に目を光らし警護に当たっていました。「江戸城」の奥にある番所ほど位の高い役人が詰めていました。かつて、「大手三之門」の手前には、「大手濠」と「桔梗濠」があり、「下乗橋」が架かっていました。「同心番所」の役割は、「下乗橋」入口脇で登城する大名の供の者を監視していました。ちなみに、「同心」とは下級役人の総称ですが、徳川家に信任篤い「御家人」が務めていました。「同心番所」での必見のポイントは、建物の棟瓦や軒端に瓦には、「葵の紋」(三葉葵)が付いているのをお見逃しないようにしてください。
次は、「同心番所」の前を抜け、「本丸大手門」(大手三の門)の「渡櫓門」石垣の間を抜けると、第二の番所の「百人番所」です。「百人番所」は、数少ない江戸時代から残る「江戸城」の遺構で、検問するだけでなく、幕府直轄の精鋭部隊、「鉄砲百人組」が有事に備えて詰めていました。警備を担当したのが、徳川家と縁故のある「甲賀組」、「伊賀組」、「根来組」、「廿五騎組」です。その名の由来は、各組の同心100人が配備されたことによるものです。「百人番所」での必見のポイントは、やはりここでも建物の棟瓦には、「葵の紋」(三葉葵)が付いているのをお見逃しないようにしてください。
さらに進むと、「百人番所」の右手に「中之門跡」があります。「中之門」は、明暦3年(1657年)の「明暦の大火」(振袖火事)で、江戸城内の大部分の建物を失った翌年に熊本藩主「細川綱利」によって普請され、元禄16年(1703年)の「元禄大地震」で倒壊した石垣を鳥取藩主「池田吉明」が修復したものです。「中之門」の石垣は江戸城の中でも35t前後の最大級の巨石が使用され、目地がほとんどありません。そして、更に各段の高さを水平に揃えて積んだ「整層積」の美しい石垣です。
「番所」の最後が、「中之門」の奥に位置した「大番所」です。「大番所」は、江戸城登城の最後の検問所です。ここから坂を上り「中雀門」をくぐった奥にあるのが「本丸」であるため、警備上最も大切な役割を担っていました。そして、「大番所」は、他の番所よりも身分の高い与力や同心が警備していた場所で、「書院番頭」の詰所としても使われていました。建物は残念ながら江戸時代のものではなく、昭和41年(1966年)に、皇居東御苑開園に合わせて復元されたものです。「大番所」での必見のポイントは、背後の15段の射撃用の石段があるので見落とさないよう注意してください。
「大手門」から登城ルートで、「本丸」に至る最後の門が「中雀門」です。ここが「本丸表御殿」の玄関門となります。そして、「大手三之門」、「中之門」を駕籠に乗ったまま通過を許された尾張藩、紀州藩、水戸藩の「徳川御三家」でさえも、「中雀門」では駕籠を下りなければなりませんでした。そして、「御書院番」の与力、同心が詰めていたので「書院門」との別名もありました。やはり枡形となって「高麗門」と「渡櫓門」の2つの門で構成された、防御重視の門でした。さらに「書院出櫓」、「書院二重櫓」という2つの櫓で守られていました。「中雀門跡」での必見のポイントは、幕末の文久3年(1863年)の火災で「本丸御殿」が焼失した際に類焼し、石垣の表面は、熱により黒く焦げた跡です。当時の火災のすごさを物語っています。
「中雀門跡」の坂道を上り切った所にあるのが「果樹古品種園」です。「果樹古品種園」は、「上皇陛下」のお考えを受けて、江戸時代に栽培されていた品種の果樹を再現した果樹園です。平成20年(2008)年4月11日に、「天皇・皇后両陛下」(現在の上皇陛下)が「ミカン」と「ナシ」の「古品種」を記念植樹されました。そして、
平成21年(2009年)には、「果樹古品種園」(東・西)が整備され、約1000㎡の広さが「果樹古品種園」に22品種の苗が2本ずつ植えられました。
「果樹古品種園」の裏側に「野草の島」があります。「野草の島」には、四季折々に花や実を楽しめるよう野草や花木が植えられています。
「野草の島」の奥(南側)に進むと「富士見櫓」があります。「富士見櫓」は、「本丸地区」に現存する江戸城遺構として、唯一の櫓で、遺構の中では最も古いものといわれ、高さが約16メートルある「三重櫓」です。また、「富士見櫓」は、どこから見ても同じような形に見えることから「八方正面の櫓」という別名を持ち、明暦3年(1657年)の大火で天守閣が焼失後、万治2年(1659年)に再建されたものです。焼失した後は、「代用天守」として重要な役割を果たしてきました。ちなみに、往時には江戸城には19の櫓がありましたが現存するのは、「伏見櫓」、「桜田巽櫓」、「富士見櫓」の3ヶ所だけです。
「富士見櫓」から「蓮池濠」に沿って小高い道を進むと「松の大廊下跡」があります。「松之大廊下」は、「江戸城」で2番目に長い廊下で、襖戸に松並木と千鳥が描かれ、「江戸城本丸」の「表御殿大広間」から将軍との対面所である「白書院」に至る西へ19m、北へ31m、幅5m、畳敷きの廊下です。元禄14年(1701年)に、「浅野内匠頭長矩」が「吉良上野介義央」に対し起こした刃傷事件の現場として有名です。
「松の大廊下跡」からさらに「天守台」方面に進むと「富士見多聞」があります。「多聞」とは、城郭の石垣上に建てられた長屋で、城壁よりも防御機能を高めたものです。江戸時代の江戸城本丸には、このような多聞が、各所に築かれていましたが、現存するのは、この「富士見多聞」だけです。「富士見多聞」は、明暦3年(1657年)に、明暦の大火で焼失しましたが、その後再建された建物が現存しています。平時には内部に鉄砲や弓矢が納められ、戦時のときには格子窓を開けて襲いかかる敵兵を狙い撃つことができました。「富士見多聞」内の窓からは、「乾通り」や「紅葉山」など皇居の景色が楽しめます。
「富士見多聞」からさらに「天守台」方面に進むと「石室」があります。「石室」は、石で組んだ室(部屋)で、内部は20㎡ほどの広さとなっています。石は伊豆半島から船で運んだ「安山岩」(伊豆石)の切石で、隙間もないほどキッチリと石が積まれています。ただし、何に使われていたのかは定かではないそうです。
「石室」の先を進むと「竹林」があります。ここには、日本や中国の竹、笹類が13種類ほど植えられています。「上皇陛下」のお考えを受けて、いずれも昭和時代に献上され「皇居吹上御苑」で増えた株を分けたものだそうです。ちなみに、「竹林」には、カンザンチク、ラッキョウヤダケ、オウゴンチク、キンメイチク、ギンメイチク、キッコウチクなどの他、インヨウチク、シホウチク、コンシマダケ、ホウショウチク、スホウチク、ホウライチク、キンメイモウソウ等、13種類の竹、笹類が植えられていています。
「竹林」の緩やかな坂を下りると、「桜の島」が右手にあります。「東御苑」には、30品種ほどの桜があり、その約半数がこの「桜の島」にあります。正面には、令和元年(1989年)11月に、「大嘗祭」が執り行われた「本丸大芝生」、その他に「竹林」の右手には、かつては、江戸城の本丸があった「茶畑」、上皇陛下のお考えを受けて、皇居吹上御苑からの移植などから移植された「バラ園」などもあります。
「桜の島」の左手には、「天守台」があります。この「天守台」は日本最高といわれる高さ51mの江戸城の天守を支え、現在は東西約41m、南北約45m、高さ11mの石積みが残されています。「江戸城」の「天守閣」は、三度建てられましたが、明暦3年(1657年)の大火で焼失した後は、「天守台石垣」が築き直されただけで、再建されることはなかったそうです。ちなみに、「江戸城天守台」の歴史を遡ってみると、最初に、日本最高だったという高さ51mの天守を支えた江戸城天守台は「黒田長政」が築造を担当し、慶長11年(1606年)に完成しました。元和8年(1622年)に、2代将軍「徳川秀忠」は、本丸拡張工事を実施しました。「天守台・御殿」を修築し、「元和期天下普請」の天守閣を建設しました。さらに、寛永14年(1637年)、3代将軍「徳川家光」は「天守台・御殿」を修築し、翌年には「寛永度の天守」が完成します。現存する「天守台」は、その「寛永期天下普請」の遺構がベースになっているそうです。その「天守閣」の高さは45m、「天守台」の高さは14m、地上からの高さは58m、現在のビルに直せば20階建てに相当するという高層建築でした。
「北桔橋門」は、「天守台」の後ろ側、「江戸城本丸」の北端に位置しています。「北桔橋門」は、跳ね上がる構造の橋で、その門の名前の由来になっています。有事の際には「本丸」を守るため、手前の橋が跳ね上がる仕掛けになっていましたが、現在は「土橋」となっています。「北桔橋門」の特徴は、門の横の内濠は防御力を高めるためにほかの濠よりも深く掘られ、また、両側が20m以上もある石垣になっています。そして、「北桔橋門」の両側の高い石垣の上には「築地塀」があります。この石垣は「平川濠」側に「五十三間多聞」という長大な「多聞」を配し、深い濠で「本丸」の背後からの攻撃を守ろうとしていました。さらに「五十三間多聞」には「五十三間櫓」が、「三日月濠」側にも「多聞」と「乾櫓」があり高い防御力を備えていました。
「天守台」に向かって右手にあるのが「桃華楽堂」です。「桃華楽堂」は、昭和天皇の皇后であった「香淳皇后」の還暦をお祝いして、昭和41年(1966年)に建設された音楽堂です。「桃華楽堂」は、キンポウゲ科の「テッセン」の花弁(八弁花)をかたどった屋根と八面体という建築様式です。「桃華楽堂」の外壁のモザイク・タイルの図柄は、各面とも大きく羽ばたく鳥を抽象的に描いたものに、「日月星」、「衣食住」、「風水火」、「春夏秋冬」、「鶴亀」、「雪月花」、「楽の音」、「松竹梅」を施したものとなっています。設計は、「大隈記念館」などを設計した「今井兼次」によるものです。また、「桃華楽堂」は、雅楽士を育成する場でもあります。
「天守台」の前にある「本丸大芝生」には、「大奥跡」の標識板があるだけで、残念ながら往時を偲ぶものは何もありません。「大奥」は、「表御殿」、「中奥」から「御鈴廊下」でつながっていました。「大奥」では、将軍の子女や正室、奥女中たちが生活をしていました。「本丸御殿」の約半分の面積を占めた大奥には、最盛期、約3,000人の女性が働いていたといわれています。ちなみに、「御鈴廊下」の由来は、将軍が「大奥」に渡る際には、鈴のついた紐を引いて鈴を鳴らして合図を送り、出入口である「御錠口」の開錠をしていました。そのため将軍が渡る廊下は「御鈴廊下」という名で呼ばれていたそうです。
「皇居東御苑」には、3ヶ所の休憩所が用意されています。「皇居東御苑」の園内はとても広く、登り坂もあるため、休憩しながらの散策がオススメです。一つ目は、「本丸大芝生」東側の「本丸休憩所」では、売店があり、絵葉書や財布、カレンダーなどの記念品が販売されています。外には飲み物の自動販売機があり、ベンチが利用可能です。二つ目は、「二の丸休憩所」(二の丸地区)で、「二の丸雑木林」の南側にあり、売店はありませんが、休憩所内に飲み物の自動販売機があります。三つ目は、「大手仮休憩所」(三の丸地区)で、「皇居東御苑」のメインゲートである「大手門」に近く、「三の丸尚蔵館」(閉館中)の向かいにあります。売店では記念品などが販売され、外に飲み物の自動販売機があります。この休憩所内には座る場所がありません。外に数名が利用可能なベンチが置かれています。
「本丸休憩所」に隣接する増築棟には、「江戸城天守復元模型」が公開されています。江戸時代の初期、江戸城の中心であった本丸には、慶長期、元和期、寛永期と3度にわたり天守が築かれました。「本天守復元模型」は、「寛永期の天守」を1/30スケールで制作したものです。
次が、「展望台」です。「展望台」は、「江戸城本丸跡」の西側、「本丸休憩所」の裏手から登った先の「白鳥濠」の脇にあります。「展望台」が建つ場所は、かつて「御台所前三重櫓」があった場所です。「御台所前三重櫓」は、文久3年(1863年)に焼失後は、再建されることがありませんでした。眼下の「白鳥濠」は、「本丸」と「二の丸」の間に残った唯一の濠です。寛永12年(1635年)に、「二の丸」拡張工事の際、「本丸」と「二の丸」、「三の丸」との間にあった内濠は「白鳥濠」を除いて埋め立てられています。
次に、「椿園」です。「椿園」があるのは、「本丸跡」の西側にある石垣の近くです。小規模ですが充実した「椿園」です。この「ツバキ園」には20種類以上のツバキがあり、10月から5月まで花を楽しむことができるそうです。
通常は一般の人は入れないので、以外と注目されず素通りされてしまうのが、「楽部」楽部庁舎です。「ツバキ園」を見た後の「汐見坂」手前にある建物です。毎年秋には,楽部による雅楽の一般公開が行われています。何がすごいかというと、昭和30年(1955年)に,宮内庁楽部の楽師が演奏する雅楽は,「国の重要無形文化財」に指定され,楽部楽師は「重要無形文化財保持者」に認定されました。さらに、宮内庁楽部の演奏する雅楽は,平成21年(2009年)に,ユネスコ無形文化遺産保護条約「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に記載決議がされたそうです。
「楽部庁舎」の先に「汐見坂」があります。「汐見坂」は、「江戸城」の「本丸」と「二の丸」をつなぐ坂道です。江戸城築城の際には、江戸湾の日比谷入江が目の前まで迫り、坂の途中から海が見えたのが名の由来です。かつては坂の上には、「汐見坂門」がありました。
「汐見坂」の右手にあるのが、「白鳥濠」です。「白鳥濠」は、江戸城の二の丸と本丸の間を東西に隔てる濠で、南北に長く伸びて本丸を守るかたちになっています。「白鳥濠」は、完全に独立した濠で、濠に湛える水は湧き水と雨水のみになっています。「徳川家康時代」に積まれたという石垣も必見です。
「汐見坂」を下り、「梅林坂」を上った所に「書陵部」書陵部庁舎があります。「書陵部」は,皇室関係の貴重な図書等や陵墓を管理しています。
「梅林坂」は、「皇居東御苑」の梅の名所といわれています。「梅林坂」の始まりは、文明10年(1478年)に、「太田道灌」が「菅原道真」を祀った際に、梅の木100本をここに植えたによります。現在、「梅林坂」の下から「本丸」方面にかけて50本ほどの梅が植栽されていますが、この梅は「皇居東御苑開園」に先駆けて、昭和42年(1967年)に植えられたものです。そして、梅の開花期である2月上旬頃には石垣と梅の花という絶景スポットになっています。
「梅林坂」を下り左方向に進むと、「平川門」になります。「平川門」は、大奥の奥女中や大奥出入りの商人、さらには北の丸周辺に居館を構えた「徳川御三卿」(清水家・田安家・一橋家)が使った門が「平川門」です。ただし、江戸城で重罪を犯した人、死んだ人はここから搬出されるという「不浄門」ともなっていました。「平川門」の名前の由来は、「太田道灌」が江戸城を築いた15世紀には、江戸湾に面した現在の「平川門」周辺には、「上平川村」、「下平川村」という村があったのが「平川門」の名の由来です。また、「平川門」の前の「平川濠」には今も「木橋」が架かっていますが、「高麗門」、「渡櫓門」で構成される「枡形門」、そして「木橋」がかつてのように残されるのは江戸城でもここだけです。ここで注目して欲しいのが、「木橋」の親柱の「擬宝珠」です。ここには、「寛永」や「慶長」などの銘が彫られています。
「平川門」から戻り、「天神濠」に沿って行くと「二の丸地区」です。まず、各都道府県から寄贈された「都道府県の木」が植樹されています。さらに先に進むと左手に「諏訪の茶屋」があります。「諏訪の茶屋」は、明治45年(1912年)に「吹上御苑」に建てられ、御休所として使われていた茶屋を移築したものです。明治期の茶室風の建物として優雅な外観を誇る諏訪の茶屋ですが、外観のみ見学となります。その先に、「二の丸庭園」があります。「二の丸庭園」は、9代将軍「徳川家重」の時代の庭園図面をもとに「池泉回遊式庭園」として復元された「日本庭園」で、「二の丸池」は、「小堀遠州」作といわれる庭園の池水とほぼ同じ位置にあります。そして、「二の丸庭園」には、全国から集められた各都道府県の木260本が植えられています。「二の丸庭園」を抜けると「菖蒲田」があります。「明治天皇」が「昭憲皇太后」のために造った明治神宮の「菖蒲田」から株分けされたもので、84品種の花菖蒲が植えられています。毎年5月下旬以降に開花し目を楽しませてくれます。「菖蒲田」の先には、「二の丸雑木林」と「新雑木林」が広がっています。「昭和天皇」の御発意により、武蔵野林(雑木林)を造ろうと造成されたのが、こちらの雑木林です。「二の丸雑木林」は、都市近郊で失われていく雑木林を復元しようと昭和58年(1983年)から3か年かけて造成されました。「新雑木林」は、上皇陛下のお考えを受けて、平成14年(2002年)に拡張されました。また、「新雑木林」には流れもつくられました。
【「各門」(「大手門」、「平川門」、「北桔橋門」)までのアクセス】
⑴ 「大手門」から「皇居東御苑」へ
① 東京メトロ千代田線・東西線・丸の内線・半蔵門線、都営三田線「大手町駅」C13a出口から徒歩2分170m
② JR「東京駅」丸の内北口から徒歩11分850m
⑵ 「平川門」から「皇居東御苑」へ
東京メトロ東西線「竹橋駅」1a出口から徒歩3分280m
⑶ 「北桔橋門」から「皇居東御苑」へ
東京メトロ東西線「竹橋駅」1a出口から徒歩3分300m
「皇居東御苑」の歴史を紐解いてみると、「皇居東御苑」は、「皇居造営」の一環として、昭和35年(1960年)1月29日の閣議決定に基づき、皇居東地区の「旧江戸城本丸」、「二の丸」及び「三の丸」の一部を「皇居附属庭園」として整備することとなりました。造営の工事は、昭和36年(1961年)に着工し、昭和43年(1968年)9月に完成しました。「皇居東御苑」は、面積約21万㎡の庭園で、昭和43年(1968年)10月1日から宮中行事に支障のない限り一般に公開されるようになりました。
「皇居東御苑」の地区ごとの特徴を大まかに見てみると、「本丸地区」には、「天守台」を望むように中央部には広々とした芝生が広がり、それを囲むように、「バラ園」、「竹林」、「果樹古品種園」、「桜の島」、「野草の島」、「茶畑」など場所ごとに特徴づけられた緑地帯があります。また、「桃華楽堂」、「富士見櫓」などの建造物もあります。「二の丸地区」には、「百人番所」、復元された日本庭園(二の丸庭園)と「二の丸雑木林」、「新雑木林」、「都道府県の木」、「菖蒲田」などがあります。「三の丸地区」には、「大手門」、「三の丸尚蔵館」などがあります。
それでは、早速、「皇居東御苑」へ入園したいと思います。今回は、「大手門」から「皇居東御苑」へ入園しました。
《「皇居東御苑」お薦めの見学巡路》
①「大手高麗門」⇒②「大手門」⇒③「三の丸尚蔵館」⇒④「大手三之門跡」⇒⑤「同心番所」⇒⑥「中之門跡」⇒⑦「大番所」⇒⑧「中雀門跡」⇒⑨「果樹古品種園」⇒⑩「野草の島」⇒⑪「富士見櫓」⇒⑫「松の大廊下跡」⇒⑬「富士見多聞」⇒⑭「石室」⇒⑮「竹林」⇒⑯「桜の島」「本丸大芝生」「茶畑」「バラ園」⇒⑰「天守台」⇒⑱「北桔橋門」⇒⑲「桃華楽堂」⇒⑳「大奥跡」⇒㉑「本丸休憩所」⇒㉒「江戸城天守復元模型」⇒㉓「展望台」⇒㉔「ツバキ園」⇒㉕「楽部」楽部庁舎⇒㉖「汐見坂」⇒㉗「白鳥濠」⇒㉘「書陵部」書陵部庁舎⇒㉙「梅林坂」⇒㉚「平川門」⇒㉛「都道府県の木」⇒㉜「諏訪の茶屋」⇒㉝「二の丸庭園」⇒㉞「菖蒲田」⇒㉟「二の丸雑木林」と「新雑木林」
「大手門」から入るには、まず、「大手高麗門」前で警察による手荷物、ボディーチェックを受け、入場できます。「江戸城」の正門にあたるのが「大手門」です。「大手」とは、「追手」のことで、裏側を「搦手」と呼びます。「江戸城」の「大手門」をくぐったところが「三の丸」ですが、大正8年(1919年)に、宮内省の諸施設を建設する際、「桔梗門」から「天神濠」に至る「旧二の丸」と「三の丸」の間の濠約3.9haを埋めたため、「三の丸」と「二の丸」の境が判然としなくなっています。主に「大手門」から、将軍への謁見のために諸大名が登城しました。当時の全国300もの大名ほか諸侯は、この「大手門」から入城し、「三の丸」、「二の丸」を経て「本丸」へと登城しました。つまりは参勤交代の大名も将軍に拝謁するための正規なルートとして、この「大手門」から入城したわけです。
「江戸城大手門」の歴史を紐解いてみると、慶長11年(1606年)に江戸城が縄張りされ、「江戸城大手門」は、翌慶長12年(1607年)に、築城の名手である「藤堂高虎」によって1年3ヶ月ほどかけて築かれました。そして、現在のような堅固な「桝形形式」の城門は、元和6年(1620年)の江戸城修復に際し、「伊達正宗」、「酒井忠世」らにより完成ました。「江戸城大手門」は、「高麗門」と「渡櫓型の櫓門」で構成された典型的な「枡形門」の形式の門です。ちなみに、「桝形形式」とは、石垣を四角く巡らして直進できない通路を設けた門のことです。そして、その大きさは、「渡櫓」の「櫓門」は桁行22間(40m)、梁間4間2尺(7.9m)という大規模なものでした。「渡櫓門」には長大な武器庫である建物を載せていました。そして、ここでの必見のポイントは、枡形内に「渡櫓」の屋根を飾っていた「鯱」が展示されています。刻印に「明暦三丁酉」とあり、明暦3年(1657年)の「明暦の大火」(振袖火事)で焼失した後、万治2年(1659年)に「大手門」が再建されたときのものです。昭和20年(1945年)の空襲で門は焼け落ちましたが、「鯱」だけが現存しているのです。
「大手門」を抜けると、右手に「三の丸尚蔵館」があります。残念ながら、「三の丸尚蔵館」は、新施設への移行工事のため休館中です。再開に関しては、一部開館は令和5年(2023年)11月3日(金)、そして、全面開館は令和8年(2026年)度を予定しているそうです。「三の丸尚蔵館」は、平成5年(1993年)に「皇居東御苑」に開館したかつての皇室所有の「御物」を収蔵展示するミュージアムです。「天皇家」から寄贈された絵画、書、工芸品などの美術品類に加え、「故秩父宮妃」のご遺贈品、「香淳皇后」のご遺品、「故高松宮妃」のご遺贈品、「三笠宮家」のご寄贈品など1万点近くを収蔵されています。ちなみに、「御物」とは、皇室の私有品として天皇家に伝来した美術品や古文書などの所蔵品のことです。
「三の丸尚蔵館」から先に進むと、「大手三之門跡」があります。この「大手三之門」は、寛永13年(1635年)に、伊勢津藩主「藤堂高次」が枡形の三方を「多聞櫓」で囲む江戸城唯一の門である「大手三の門」を築きました。江戸時代には、「下乗橋」が架かっていたそうです。つまり、現在の「大手休憩所(売店)」は、当時の濠の中に位置していたことになります。また、警護の与力や同心が詰めた「同心番所」も「下乗橋」の手前にあったそうです。かつては「大手三之門」の前に濠があって「三の丸」と「二の丸」を分けていました。ちなみに、「大手三之門」を「下乗門」ともいうのは、この先の「二の丸」へ駕籠に乗って入城できるのは、「尾張藩」、「紀州藩」、「水戸藩」の「徳川御三家」の藩主だけだったからです。「御三家以外」の大名はここで駕籠を降りなければならなかったため、「下乗」の高札が立てられていたそうです。
「大手三之門跡」のすぐ先には、「同心番所」があります。かつて、「江戸城」の城内には数十メートルごとに「同心番所」、「百人番所」、「大番所」という3ヶ所の番所が並んで、厳重に目を光らし警護に当たっていました。「江戸城」の奥にある番所ほど位の高い役人が詰めていました。かつて、「大手三之門」の手前には、「大手濠」と「桔梗濠」があり、「下乗橋」が架かっていました。「同心番所」の役割は、「下乗橋」入口脇で登城する大名の供の者を監視していました。ちなみに、「同心」とは下級役人の総称ですが、徳川家に信任篤い「御家人」が務めていました。「同心番所」での必見のポイントは、建物の棟瓦や軒端に瓦には、「葵の紋」(三葉葵)が付いているのをお見逃しないようにしてください。
次は、「同心番所」の前を抜け、「本丸大手門」(大手三の門)の「渡櫓門」石垣の間を抜けると、第二の番所の「百人番所」です。「百人番所」は、数少ない江戸時代から残る「江戸城」の遺構で、検問するだけでなく、幕府直轄の精鋭部隊、「鉄砲百人組」が有事に備えて詰めていました。警備を担当したのが、徳川家と縁故のある「甲賀組」、「伊賀組」、「根来組」、「廿五騎組」です。その名の由来は、各組の同心100人が配備されたことによるものです。「百人番所」での必見のポイントは、やはりここでも建物の棟瓦には、「葵の紋」(三葉葵)が付いているのをお見逃しないようにしてください。
さらに進むと、「百人番所」の右手に「中之門跡」があります。「中之門」は、明暦3年(1657年)の「明暦の大火」(振袖火事)で、江戸城内の大部分の建物を失った翌年に熊本藩主「細川綱利」によって普請され、元禄16年(1703年)の「元禄大地震」で倒壊した石垣を鳥取藩主「池田吉明」が修復したものです。「中之門」の石垣は江戸城の中でも35t前後の最大級の巨石が使用され、目地がほとんどありません。そして、更に各段の高さを水平に揃えて積んだ「整層積」の美しい石垣です。
「番所」の最後が、「中之門」の奥に位置した「大番所」です。「大番所」は、江戸城登城の最後の検問所です。ここから坂を上り「中雀門」をくぐった奥にあるのが「本丸」であるため、警備上最も大切な役割を担っていました。そして、「大番所」は、他の番所よりも身分の高い与力や同心が警備していた場所で、「書院番頭」の詰所としても使われていました。建物は残念ながら江戸時代のものではなく、昭和41年(1966年)に、皇居東御苑開園に合わせて復元されたものです。「大番所」での必見のポイントは、背後の15段の射撃用の石段があるので見落とさないよう注意してください。
「大手門」から登城ルートで、「本丸」に至る最後の門が「中雀門」です。ここが「本丸表御殿」の玄関門となります。そして、「大手三之門」、「中之門」を駕籠に乗ったまま通過を許された尾張藩、紀州藩、水戸藩の「徳川御三家」でさえも、「中雀門」では駕籠を下りなければなりませんでした。そして、「御書院番」の与力、同心が詰めていたので「書院門」との別名もありました。やはり枡形となって「高麗門」と「渡櫓門」の2つの門で構成された、防御重視の門でした。さらに「書院出櫓」、「書院二重櫓」という2つの櫓で守られていました。「中雀門跡」での必見のポイントは、幕末の文久3年(1863年)の火災で「本丸御殿」が焼失した際に類焼し、石垣の表面は、熱により黒く焦げた跡です。当時の火災のすごさを物語っています。
「中雀門跡」の坂道を上り切った所にあるのが「果樹古品種園」です。「果樹古品種園」は、「上皇陛下」のお考えを受けて、江戸時代に栽培されていた品種の果樹を再現した果樹園です。平成20年(2008)年4月11日に、「天皇・皇后両陛下」(現在の上皇陛下)が「ミカン」と「ナシ」の「古品種」を記念植樹されました。そして、
平成21年(2009年)には、「果樹古品種園」(東・西)が整備され、約1000㎡の広さが「果樹古品種園」に22品種の苗が2本ずつ植えられました。
「果樹古品種園」の裏側に「野草の島」があります。「野草の島」には、四季折々に花や実を楽しめるよう野草や花木が植えられています。
「野草の島」の奥(南側)に進むと「富士見櫓」があります。「富士見櫓」は、「本丸地区」に現存する江戸城遺構として、唯一の櫓で、遺構の中では最も古いものといわれ、高さが約16メートルある「三重櫓」です。また、「富士見櫓」は、どこから見ても同じような形に見えることから「八方正面の櫓」という別名を持ち、明暦3年(1657年)の大火で天守閣が焼失後、万治2年(1659年)に再建されたものです。焼失した後は、「代用天守」として重要な役割を果たしてきました。ちなみに、往時には江戸城には19の櫓がありましたが現存するのは、「伏見櫓」、「桜田巽櫓」、「富士見櫓」の3ヶ所だけです。
「富士見櫓」から「蓮池濠」に沿って小高い道を進むと「松の大廊下跡」があります。「松之大廊下」は、「江戸城」で2番目に長い廊下で、襖戸に松並木と千鳥が描かれ、「江戸城本丸」の「表御殿大広間」から将軍との対面所である「白書院」に至る西へ19m、北へ31m、幅5m、畳敷きの廊下です。元禄14年(1701年)に、「浅野内匠頭長矩」が「吉良上野介義央」に対し起こした刃傷事件の現場として有名です。
「松の大廊下跡」からさらに「天守台」方面に進むと「富士見多聞」があります。「多聞」とは、城郭の石垣上に建てられた長屋で、城壁よりも防御機能を高めたものです。江戸時代の江戸城本丸には、このような多聞が、各所に築かれていましたが、現存するのは、この「富士見多聞」だけです。「富士見多聞」は、明暦3年(1657年)に、明暦の大火で焼失しましたが、その後再建された建物が現存しています。平時には内部に鉄砲や弓矢が納められ、戦時のときには格子窓を開けて襲いかかる敵兵を狙い撃つことができました。「富士見多聞」内の窓からは、「乾通り」や「紅葉山」など皇居の景色が楽しめます。
「富士見多聞」からさらに「天守台」方面に進むと「石室」があります。「石室」は、石で組んだ室(部屋)で、内部は20㎡ほどの広さとなっています。石は伊豆半島から船で運んだ「安山岩」(伊豆石)の切石で、隙間もないほどキッチリと石が積まれています。ただし、何に使われていたのかは定かではないそうです。
「石室」の先を進むと「竹林」があります。ここには、日本や中国の竹、笹類が13種類ほど植えられています。「上皇陛下」のお考えを受けて、いずれも昭和時代に献上され「皇居吹上御苑」で増えた株を分けたものだそうです。ちなみに、「竹林」には、カンザンチク、ラッキョウヤダケ、オウゴンチク、キンメイチク、ギンメイチク、キッコウチクなどの他、インヨウチク、シホウチク、コンシマダケ、ホウショウチク、スホウチク、ホウライチク、キンメイモウソウ等、13種類の竹、笹類が植えられていています。
「竹林」の緩やかな坂を下りると、「桜の島」が右手にあります。「東御苑」には、30品種ほどの桜があり、その約半数がこの「桜の島」にあります。正面には、令和元年(1989年)11月に、「大嘗祭」が執り行われた「本丸大芝生」、その他に「竹林」の右手には、かつては、江戸城の本丸があった「茶畑」、上皇陛下のお考えを受けて、皇居吹上御苑からの移植などから移植された「バラ園」などもあります。
「桜の島」の左手には、「天守台」があります。この「天守台」は日本最高といわれる高さ51mの江戸城の天守を支え、現在は東西約41m、南北約45m、高さ11mの石積みが残されています。「江戸城」の「天守閣」は、三度建てられましたが、明暦3年(1657年)の大火で焼失した後は、「天守台石垣」が築き直されただけで、再建されることはなかったそうです。ちなみに、「江戸城天守台」の歴史を遡ってみると、最初に、日本最高だったという高さ51mの天守を支えた江戸城天守台は「黒田長政」が築造を担当し、慶長11年(1606年)に完成しました。元和8年(1622年)に、2代将軍「徳川秀忠」は、本丸拡張工事を実施しました。「天守台・御殿」を修築し、「元和期天下普請」の天守閣を建設しました。さらに、寛永14年(1637年)、3代将軍「徳川家光」は「天守台・御殿」を修築し、翌年には「寛永度の天守」が完成します。現存する「天守台」は、その「寛永期天下普請」の遺構がベースになっているそうです。その「天守閣」の高さは45m、「天守台」の高さは14m、地上からの高さは58m、現在のビルに直せば20階建てに相当するという高層建築でした。
「北桔橋門」は、「天守台」の後ろ側、「江戸城本丸」の北端に位置しています。「北桔橋門」は、跳ね上がる構造の橋で、その門の名前の由来になっています。有事の際には「本丸」を守るため、手前の橋が跳ね上がる仕掛けになっていましたが、現在は「土橋」となっています。「北桔橋門」の特徴は、門の横の内濠は防御力を高めるためにほかの濠よりも深く掘られ、また、両側が20m以上もある石垣になっています。そして、「北桔橋門」の両側の高い石垣の上には「築地塀」があります。この石垣は「平川濠」側に「五十三間多聞」という長大な「多聞」を配し、深い濠で「本丸」の背後からの攻撃を守ろうとしていました。さらに「五十三間多聞」には「五十三間櫓」が、「三日月濠」側にも「多聞」と「乾櫓」があり高い防御力を備えていました。
「天守台」に向かって右手にあるのが「桃華楽堂」です。「桃華楽堂」は、昭和天皇の皇后であった「香淳皇后」の還暦をお祝いして、昭和41年(1966年)に建設された音楽堂です。「桃華楽堂」は、キンポウゲ科の「テッセン」の花弁(八弁花)をかたどった屋根と八面体という建築様式です。「桃華楽堂」の外壁のモザイク・タイルの図柄は、各面とも大きく羽ばたく鳥を抽象的に描いたものに、「日月星」、「衣食住」、「風水火」、「春夏秋冬」、「鶴亀」、「雪月花」、「楽の音」、「松竹梅」を施したものとなっています。設計は、「大隈記念館」などを設計した「今井兼次」によるものです。また、「桃華楽堂」は、雅楽士を育成する場でもあります。
「天守台」の前にある「本丸大芝生」には、「大奥跡」の標識板があるだけで、残念ながら往時を偲ぶものは何もありません。「大奥」は、「表御殿」、「中奥」から「御鈴廊下」でつながっていました。「大奥」では、将軍の子女や正室、奥女中たちが生活をしていました。「本丸御殿」の約半分の面積を占めた大奥には、最盛期、約3,000人の女性が働いていたといわれています。ちなみに、「御鈴廊下」の由来は、将軍が「大奥」に渡る際には、鈴のついた紐を引いて鈴を鳴らして合図を送り、出入口である「御錠口」の開錠をしていました。そのため将軍が渡る廊下は「御鈴廊下」という名で呼ばれていたそうです。
「皇居東御苑」には、3ヶ所の休憩所が用意されています。「皇居東御苑」の園内はとても広く、登り坂もあるため、休憩しながらの散策がオススメです。一つ目は、「本丸大芝生」東側の「本丸休憩所」では、売店があり、絵葉書や財布、カレンダーなどの記念品が販売されています。外には飲み物の自動販売機があり、ベンチが利用可能です。二つ目は、「二の丸休憩所」(二の丸地区)で、「二の丸雑木林」の南側にあり、売店はありませんが、休憩所内に飲み物の自動販売機があります。三つ目は、「大手仮休憩所」(三の丸地区)で、「皇居東御苑」のメインゲートである「大手門」に近く、「三の丸尚蔵館」(閉館中)の向かいにあります。売店では記念品などが販売され、外に飲み物の自動販売機があります。この休憩所内には座る場所がありません。外に数名が利用可能なベンチが置かれています。
「本丸休憩所」に隣接する増築棟には、「江戸城天守復元模型」が公開されています。江戸時代の初期、江戸城の中心であった本丸には、慶長期、元和期、寛永期と3度にわたり天守が築かれました。「本天守復元模型」は、「寛永期の天守」を1/30スケールで制作したものです。
次が、「展望台」です。「展望台」は、「江戸城本丸跡」の西側、「本丸休憩所」の裏手から登った先の「白鳥濠」の脇にあります。「展望台」が建つ場所は、かつて「御台所前三重櫓」があった場所です。「御台所前三重櫓」は、文久3年(1863年)に焼失後は、再建されることがありませんでした。眼下の「白鳥濠」は、「本丸」と「二の丸」の間に残った唯一の濠です。寛永12年(1635年)に、「二の丸」拡張工事の際、「本丸」と「二の丸」、「三の丸」との間にあった内濠は「白鳥濠」を除いて埋め立てられています。
次に、「椿園」です。「椿園」があるのは、「本丸跡」の西側にある石垣の近くです。小規模ですが充実した「椿園」です。この「ツバキ園」には20種類以上のツバキがあり、10月から5月まで花を楽しむことができるそうです。
通常は一般の人は入れないので、以外と注目されず素通りされてしまうのが、「楽部」楽部庁舎です。「ツバキ園」を見た後の「汐見坂」手前にある建物です。毎年秋には,楽部による雅楽の一般公開が行われています。何がすごいかというと、昭和30年(1955年)に,宮内庁楽部の楽師が演奏する雅楽は,「国の重要無形文化財」に指定され,楽部楽師は「重要無形文化財保持者」に認定されました。さらに、宮内庁楽部の演奏する雅楽は,平成21年(2009年)に,ユネスコ無形文化遺産保護条約「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に記載決議がされたそうです。
「楽部庁舎」の先に「汐見坂」があります。「汐見坂」は、「江戸城」の「本丸」と「二の丸」をつなぐ坂道です。江戸城築城の際には、江戸湾の日比谷入江が目の前まで迫り、坂の途中から海が見えたのが名の由来です。かつては坂の上には、「汐見坂門」がありました。
「汐見坂」の右手にあるのが、「白鳥濠」です。「白鳥濠」は、江戸城の二の丸と本丸の間を東西に隔てる濠で、南北に長く伸びて本丸を守るかたちになっています。「白鳥濠」は、完全に独立した濠で、濠に湛える水は湧き水と雨水のみになっています。「徳川家康時代」に積まれたという石垣も必見です。
「汐見坂」を下り、「梅林坂」を上った所に「書陵部」書陵部庁舎があります。「書陵部」は,皇室関係の貴重な図書等や陵墓を管理しています。
「梅林坂」は、「皇居東御苑」の梅の名所といわれています。「梅林坂」の始まりは、文明10年(1478年)に、「太田道灌」が「菅原道真」を祀った際に、梅の木100本をここに植えたによります。現在、「梅林坂」の下から「本丸」方面にかけて50本ほどの梅が植栽されていますが、この梅は「皇居東御苑開園」に先駆けて、昭和42年(1967年)に植えられたものです。そして、梅の開花期である2月上旬頃には石垣と梅の花という絶景スポットになっています。
「梅林坂」を下り左方向に進むと、「平川門」になります。「平川門」は、大奥の奥女中や大奥出入りの商人、さらには北の丸周辺に居館を構えた「徳川御三卿」(清水家・田安家・一橋家)が使った門が「平川門」です。ただし、江戸城で重罪を犯した人、死んだ人はここから搬出されるという「不浄門」ともなっていました。「平川門」の名前の由来は、「太田道灌」が江戸城を築いた15世紀には、江戸湾に面した現在の「平川門」周辺には、「上平川村」、「下平川村」という村があったのが「平川門」の名の由来です。また、「平川門」の前の「平川濠」には今も「木橋」が架かっていますが、「高麗門」、「渡櫓門」で構成される「枡形門」、そして「木橋」がかつてのように残されるのは江戸城でもここだけです。ここで注目して欲しいのが、「木橋」の親柱の「擬宝珠」です。ここには、「寛永」や「慶長」などの銘が彫られています。
「平川門」から戻り、「天神濠」に沿って行くと「二の丸地区」です。まず、各都道府県から寄贈された「都道府県の木」が植樹されています。さらに先に進むと左手に「諏訪の茶屋」があります。「諏訪の茶屋」は、明治45年(1912年)に「吹上御苑」に建てられ、御休所として使われていた茶屋を移築したものです。明治期の茶室風の建物として優雅な外観を誇る諏訪の茶屋ですが、外観のみ見学となります。その先に、「二の丸庭園」があります。「二の丸庭園」は、9代将軍「徳川家重」の時代の庭園図面をもとに「池泉回遊式庭園」として復元された「日本庭園」で、「二の丸池」は、「小堀遠州」作といわれる庭園の池水とほぼ同じ位置にあります。そして、「二の丸庭園」には、全国から集められた各都道府県の木260本が植えられています。「二の丸庭園」を抜けると「菖蒲田」があります。「明治天皇」が「昭憲皇太后」のために造った明治神宮の「菖蒲田」から株分けされたもので、84品種の花菖蒲が植えられています。毎年5月下旬以降に開花し目を楽しませてくれます。「菖蒲田」の先には、「二の丸雑木林」と「新雑木林」が広がっています。「昭和天皇」の御発意により、武蔵野林(雑木林)を造ろうと造成されたのが、こちらの雑木林です。「二の丸雑木林」は、都市近郊で失われていく雑木林を復元しようと昭和58年(1983年)から3か年かけて造成されました。「新雑木林」は、上皇陛下のお考えを受けて、平成14年(2002年)に拡張されました。また、「新雑木林」には流れもつくられました。
【「各門」(「大手門」、「平川門」、「北桔橋門」)までのアクセス】
⑴ 「大手門」から「皇居東御苑」へ
① 東京メトロ千代田線・東西線・丸の内線・半蔵門線、都営三田線「大手町駅」C13a出口から徒歩2分170m
② JR「東京駅」丸の内北口から徒歩11分850m
⑵ 「平川門」から「皇居東御苑」へ
東京メトロ東西線「竹橋駅」1a出口から徒歩3分280m
⑶ 「北桔橋門」から「皇居東御苑」へ
東京メトロ東西線「竹橋駅」1a出口から徒歩3分300m
投稿日:2023年8月1日
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2023年4月
2023年4月16日訪問、あいにく 天候に恵まれず【二の丸庭園】のみを散策しましたが《クルメツツジ》と《シャガ》の美しさを十分楽しめました(添付 写真参照)。 なお【東御苑】内の《花鑑賞》に興味あれば 【皇居東御苑】でホームページを検索すると [皇居東御苑]があり 又 その中に[花だよりの地図(含む pdf版 印刷可能)]が掲載されていますので 参照されることをお薦めします、[皇居東御苑]のどこに どのような花が咲いているのかが 一目でわかり 簡単に目的の花を見つけることが出来ます。
投稿日:2023年4月16日
この口コミはTripadvisor LLCのものではなく、メンバー個人の主観的な意見です。 トリップアドバイザーでは、投稿された口コミの確認を行っています。
My friends recently visited the East Gardens of Imperial Palace and they mentioned that there is a free group guide that you can join to visit the gardens, can someone explain how I do this and do I book etc? My husband and I would like to visit on 26th April 2018.
Thanking you
Cheers
Miche
投稿日:2018年4月8日
Unfortunately I don’t know. We saw people touring but in Japanese. We just walked the area. There is an app for Tokyo & it may have information.
投稿日:2018年4月9日
Hi, i'm planning to go to Tokyo in september 2017. i am well aware that it is rainy season, so is it worth visiting this landmark? thanks.
投稿日:2017年2月4日
Nice to hear that you are visiting Tokyo. It is inot a good place to go when it is raining. Hope this is helpful.
投稿日:2017年2月5日
Hi, I'm visiting Tokyo in November and would like to visit the Imperial Palace. But the agency's for the Imperial Palace is not so...friendly or secured. How else can I visit the Palace without making any booking or joining any tour? I just wanna take some nice photographs and enjoy the serenity of the garden.
投稿日:2016年10月10日
The east gardens are free and you do not need to take a tour to get in. I think there is a small entrance fee. And the gardens are not open every day. Check with your hotel. I am sure they can tell you what days the gardens are open
投稿日:2016年10月10日
Hi all...I am planning a trip to Japan in January 2017. Was interested to see The Imperial Palace and the gardens but after reading some Trip Advisor reviews , I am not sure if it is worth my time since you don't get to go into any buildings and not sure what it will be like during winter time . Any suggestions or advise would be appreciated. Thanks all in advance.
投稿日:2016年8月6日
I would think that a trek through the palace grounds would be a rather nice and relaxing break from the concrete jungles you'll encounter elsewhere in the city. There's plenty of nice buildings to go through right across the street, the National Gallery of Modern Art being a nice choice.
投稿日:2016年8月7日
I would like to visit the imperial palace. It is unclear to me from reading if this is possible? The Imperial Household Agency web site is not very user friendly. Any help would be appreciated?
投稿日:2015年7月14日
The inner grounds of the Palace are generally not open to the public. only on January 2nd (New Year's greeting) and December 23( Emperor's birthday). You can get a guided tour during the rest of the year, although no buildings are entered. They need to be reserved in advance through the Imperial Household agency and are held in Japanese and English. The Imperial East Gardens are open throughout the year except on Mondays, Fridays and special occasions.
投稿日:2015年7月15日
Is it possible to walk through the palace grounds from south to north (Kikyo-mon gate to Kitahane-bahi-mon or Hirikana-mon gate) and then go through the gate to get to the modern art museum?
投稿日:2015年6月28日
There are 3 entrances to the East Gardens of the Imperial Palace, Ote-mon gate (south-east side), Hirakawa-mon gate (north side), Kita-kikyo-mon gate (north side), and you can enter/exit from any of these 3 gates. So if you want to go through the garden from south to north, you can enter from Ote-mon gate (not Kikyo-mon gate), then exit from Kita-kikyo-mon gate or Hirakawa-mon gate.
As far as I know, Kikyo-mon gate (south side) is open only for people who are booked for the tour of the Imperial Palace, which is free and you can book online via Imperial Household Agency.
投稿日:2015年6月29日
I will be visiting in May and wanted to know if you need to book reservations to see certain parts of the palace?
投稿日:2015年3月30日
Sorry to bother you, my wife and I are planning a visit to Tokyo in August. I read a lot about the imperial palace. My question is do the East Gardens of the Imperial palace is it a separate entrance? or one you go into the Castle area you can visit the east garden?
Not sure who is the lay out of the palace and the grounds. I guess my question would also be: is it one entrance to the Palace Grounds or is it separate places with separate entrances?
Thank you for your help.
投稿日:2015年3月2日
The imperial palace has different gates but only the east garden one is open for public
投稿日:2017年2月9日
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