氷川神社
建築物神社/寺院/教会など
6:00~17:00
月曜日
6:00 - 17:00
火曜日
6:00 - 17:00
水曜日
6:00 - 17:00
木曜日
6:00 - 17:00
金曜日
6:00 - 17:00
土曜日
6:00 - 17:00
日曜日
6:00 - 17:00
旅行者の感想
社殿は第8代将軍「徳川吉宗」の命により建立され、随所に江戸の雰囲気が感じられる神社です。
バブル評価 5 段階中 4.02023年12月
港区赤坂六丁目にある「赤坂氷川神社」についての情報を発信していきます。今回、「赤坂氷川神社」を訪れたのは2023年12月27日です。「赤坂氷川神社」へは、東京メトロ南北線「六本木一丁目駅」が最寄り駅ですが、今回は、「赤坂氷川神社」と忠臣蔵で有名な「南部坂」を途中で見ることを予定していたので、都営大江戸線「六本木駅」を利用しました。東京メトロ日比谷線・都営大江戸線「六本木駅」の6番出口を出て、左方向に350mほど道なりに進むと突き当りになります。途中の左手に「檜町公園」があります。突き当りを左折100mほど進むとまた突き当りになります。そこを左折し、250mほど進むと左手に「赤坂氷川神社」の入口があります。 「赤坂氷川神社」は、港区赤坂にある「氷川神社」で、大都会の赤坂にありながら、江戸時代の面影を残しています。例えば、江戸の年号が刻まれた石碑、灯籠、7対の狛犬と歴史を感じさせる遺産など、江戸時代の歴史が感じられる境内が残っています。「赤坂氷川神社」の歴史と概要を紐解いてみると、「赤坂氷川神社」の創建年代は不詳ですが、天暦5年(951年)に東国を遊行していた「蓮林僧正」が、現在の赤坂4丁目付近の「一ツ木村」で一夜を明かすと夢の中で御祭神のお告げがあり、この地に「氷川明神」の「社殿」を建てお祀りをしたことにはじまります。また、100年後の治暦2年(1066年)の夏の、関東一円を襲った大旱魃があり、苦しむ村人たちが「氷川明神」に雨乞いの祈願をするとたちまち雨が降りはじめたという話も残っています。そして、江戸時代には第8代将軍「徳川吉宗」から篤い崇敬を受け、以後は徳川将軍家より庇護されました。「徳川吉宗」の命によって造営された社殿が現存しています。歴史を振り返ってみれば、現在までに「安政の大地震」、「関東大震災」、「東京大空襲」などがあったにもかかわらず、それらの被災を免れているのは奇跡的とも言えるのではないでしょうか。「氷川」の名称の由来は、出雲国「簸川」(現在の島根県斐伊川)にあるとされ、「簸川」の上流は御祭神「素盞嗚尊」の「八岐大蛇退治」の舞台と伝えられています。 《「赤坂氷川神社」のお薦め参拝巡路》 ①「力石」⇒②「大銀杏」⇒③「包丁塚」⇒④「九神社」⇒⑤「山口稲荷」⇒⑥「桶新稲荷」⇒ ⑦4基の「石灯籠」⇒⑧「社殿」⇒⑨「縁結ひ」⇒⑩「山車展示場」⇒⑪「四合稲荷」⇒⑫「西行稲荷」⇒ ⑬「太鼓橋」⇒⑭「苗村翁頌徳碑」 それでは、早速「赤坂氷川神社」の境内に足を踏み入れます。「赤坂氷川神社」には、南側と東側に二つの「一の鳥居」があります。江戸時代には、東側の「一の鳥居」から入るのが正式なルートであったそうですが、現在では、南側の「一の鳥居」から入るのが一般的というらしいです。赤坂方面から来ると東側の「一の鳥居」が近く、六本木方面からは南側の「一の鳥居」が最寄りとなります。私は、都営大江戸線「六本木駅」を利用したので、南側の「一の鳥居」をくぐりました。 《「力石」》 「一の鳥居」をくぐると右手に「港区立氷川神社遊び場」があり、左手に「力石」があります。江戸時代から明治時代まで鍛錬や娯楽として「力石」を用いた力試しが盛んに行われたといわれています。境内の土中から発見された力石には「三拾五貫目」(約130kg)と刻まれていました。「力石」は、平成7年(1995年)3月27日に港区登録有形民俗文化財に指定されました。 《「大銀杏」と「包丁塚」》 「一の鳥居」の参道を進むと、右手の緑地に「大銀杏」と「包丁塚」があります。「赤坂氷川神社」の「大銀杏」は推定樹齢400年で、幹の周囲は約7.5mにもなります。「社殿」が現在の地に建立された享保15年(1730年)には、すでに100年を超える樹齢をであったと考えられています。そして、裏から見るとかなりダメージを負っていますが、これは昭和20年(1945年)の東京大空襲によるものです。平成6年(1994年)に港区天然記念物に指定されました。 「包丁塚」とは、料理人の使い古した包丁を納め、その恩恵に感謝するとともに、調理した動物や魚の霊を慰めるものです。境内の「包丁塚」は、赤坂青山料飲組合が使わなくなった包丁を奉納したもので、昭和49年(1974年)11月に赤坂青山料飲組合によって建立されました。傍らの左側には、「包丁塚30周年記念」の碑も建てられています。 《「九神社」》 「一の鳥居」の参道に戻り、少し進むと左手に「九神社」があります。「九神社」は、かつて境内の各所に鎮座していた「天祖神社」、「春日神社」、「鹿島神社」、「八幡神社」、「諏訪神社」、「秋葉神社」、「厳島神社」、「金刀比羅神社」、「塞神社」の9社を合祀した神社です。それぞれの神社への遥拝所として役割がありました。戦前は仲ノ町小学校(現在の赤坂小学校)に鎮座していましたが、戦後に「赤坂氷川神社」の境内に遷座されました。 《「山口稲荷」と「桶新稲荷」》 「三の鳥居」の手前の道を左方向進むと「社殿」の左側に、「山口稲荷」と「桶新稲荷」があります。 「山口稲荷」は、終戦後、赤坂3丁目にあった山口邸から遷された神社です。鳥居には享保3年(1718年)銘があり、向かって右側の水盤には文化10年(1813年)、左側の水盤には嘉永4年(1851年)、狛犬の台座には文政8年(1825年)の文字が刻まれていています。 「桶新稲荷」は「社殿」の左手の「山口稲荷」の先にあります。「稲荷社」の主祭神である「宇迦之御魂」は稲の神で、古来は農業神として信仰をされてきました。時代が下り産業が発展すると、「稲荷神」の神格は諸産業の守護神として拡大しました。江戸時代、江戸市中では稲荷神の勧請が盛んに行われたようです。赤坂5丁目の「桶屋」の稲荷もそのうちの一社で、戦後「赤坂氷川神社」に遷されたと伝えられています。 《4基の「石灯籠」》 「三の鳥居」まで戻り、さらに先に進むと「手水舎」があり、「楼門」の両側には、平成7年(1995年)3月27日に港区の登録有形文化財に指定された4基の「石灯籠」があります。「楼門」前に安置されている灯籠は、遷座を担当していた老中「水野忠之」が「社殿」の完成を記念して奉納したものです。 《社殿》 「社殿」は、享保15年(1730年)に八代将軍「徳川吉宗」の命より建立されました。この「社殿」は、「本殿」、「幣殿」、「拝殿」の三つの建物が一体となった、いわゆる権現造りの形式です。当時は幕府による倹約政策が進められていたため、「社殿」には質実かつ簡素な気風が表れています。通常は将軍の寄進するような社寺であれば、軒下の組物を何重にも重ねたり、彫刻や彩色などで飾り立てたりするのですが、この「社殿」の組物は簡素で、彫刻も目立ちません。ただ、将軍の寄進だけあって、大きな「雲形組物」や「吹寄せ垂木」など重厚な意匠を取り入れる工夫もなされています。昭和51年(1976年) 7月1日に東京都の有形文化財(建築物)に指定されています。 《縁結ひ》 縁結びにまつわる「縁結ひ」は、「楼門」をくぐってすぐ左手にあります。実は、「宮神輿庫」になっていた一画でしたが、「山車庫」が完成したため令和5年(2023年)に再整備して、縁結び祈願の「縁結ひ」となりました。日本には願いをしたためた紙を社寺の格子に結い、縁結びを願う風習がありました。「赤坂氷川神社」ではこの風習にちなみ、季節の和紙に願い事を書き、その成就を祈る「縁結ひ」を行っています。季節の色の和紙を結い願い事の成就を祈るそうです。 《山車展示場》 「社殿」の右手には、「山車展示場」があります。「山車展示場」では、全国的にも貴重な「江戸型山車」を展示しています。「山車展示場」は、以前駐車場だった一画で、駐車場が別に整備され、令和3年(2021年)9月に「山車展示場」が完成しました。展示されている山車は、全国的にも珍しい「三層型」構造で、高さは7mほどあります。江戸一番の祭は「山王日枝」、「神田明神」の天下祭でしたが、最盛期の「赤坂氷川祭」はそれに次ぐ規模だったそうです。「山車」は、徳川将軍も観るので、江戸城内まで挽き回しがされ、その際、城門をくぐすために最上部の人形が上下するカラクリを備えていました。それが江戸型山車の最大の特徴だそうです。ちなみに、右側の「山車」は「猿」で弘化2年(1845年)に制作されたものです。左側の「山車」は「頼義」で弘化三年(1846)に松雲斎徳山によって製作されました。 《「四合稲荷」》 次は、「四合稲荷」です。「二の鳥居」をくぐり石段を降りると左手に「四合稲荷」と「西行稲荷」が並ぶようにして建っています。「四合稲荷」の名前の由来は、明治31年(1898年)に「赤坂氷川神社」の近くにあった「古呂故稲荷」、「地頭稲荷」、「本氷川稲荷」、「玉川稲荷」の4社を合祀したことに由来します。また、「赤坂氷川神社」の周辺には勝海舟の屋敷跡や住んでいた跡があります。そして、「勝海舟」により「四社を合祀」、幸福の「しあわせ」、「志を合わせる」をかけ、「四合稲荷」と命名されました。その後、大正14年(1925年)に「鈴降稲荷」と「縁起稲荷」を合祀し、さらに昭和9年(1934年)に「明徳稲荷」を合祀しています。 《西行稲荷》 「四合稲荷」の奥にあるのが「西行稲荷」です。「西行稲荷」は、文政年間の文政8年(1825年)から文政11年の間に調査された「町方書上」のによると、もともとは赤坂田町4丁目にあったようです。町内自身番屋敷地内にあった祠堂で本社は6尺に7尺5寸、拝殿2間4方で前方に3尺に6尺の向拝があったそうです。同5丁目に住んでいた「西行五兵衛」という男が、甲冑を身にまとい、弓矢を携えて狐に乗った姿の鉄の像を拾い、御神体として安置したことが創建の由来と伝えられ、別名「火伏の稲荷」として信仰されてきました。火災除の御神徳があるといわれています。そして、「西行稲荷」は、大正10年(1921年)9月「赤坂氷川神社」境内に遷座してきました。 《太鼓橋》 一の鳥居の参道をはさんで「四合稲荷」の反対側に「太鼓橋」があります。高い木々に囲まれ、なかなか風情のある場所で、心を休めることができました。「太鼓橋」の奥には、「苗村翁頌徳碑」もありました。 《一の鳥居(東側)》 最後が「一の鳥居」(東側)です。江戸時代はこちらが正式な入口でした。「一の鳥居」(東側)には「御即位記念 寄附 苗村又右衛門」の銘があり、大正4年(1915年)11月の大正天皇即位の礼に合わせて、氏子惣代の「苗村又右衛門」から奉納されたものです。 そして、最後は東側の「一の鳥居」をくぐると「氷川神社」から命名した「氷川坂」に出ます。 01_【「赤坂氷川神社」の一口メモ】 ⑴ 所在地…〒107-0052 東京都港区赤坂6丁目10−12 電話 03-3583-1935 ⑵ 開門時間…6:00 社務所受付…9:00~17:00 閉門時間…17:30 ⑶ 「赤坂氷川神社」の概要 ①社号…赤坂氷川神社 ②御祭神…素盞嗚尊、奇稲田姫命、大己貴命  ③境内社…四合稲荷神社、九殿社、稲荷神社三社 ⑷ 御神徳…厄除 縁結び 家内安全 商売繁昌 ⑸ 「赤坂氷川神社」の文化財等 ①氷川神社社殿…東京都指定文化財、昭和51年(1976年)7月1日 ②奉納絵馬7点…東京都港区指定文化財、平成16年(2004年)10月26碑 ③氷川神社の石燈籠四基…東京都港区指定文化財、平成7年(1995年)3月27日 ④氷川神社のイチョウ…東京都港区指定文化財、平成6年(1994年)9月27日 ⑤祭礼山車行列額絵…東京都港区指定有形文化財、平成11年(1999年)10月12日 ⑥旧紀州家 櫓太鼓…東京都港区指定有形文化財歴史資料、平成10年(1998年)4月9日 ⑦御祭礼番附留…東京都港区指定有形文化財古記録、平成3年(1991年)10月9日  ⑧徳川将軍家朱印状 付目録・条目・写し(7通)…港区指定有形文化財古記録、昭和62年(1987年)10月28日 ⑨月岡芳年筆「ま」組火消し絵馬…東京都港区指定有形文化財絵画、平成5年(1993年)9月28日 ⑩力石…東京都港区指定有形文化財、平成7年(1995年)3月27日 02_【「赤坂氷川神社」へのアクセス】 ⑴ 電車を利用して「赤坂氷川神社」へ ①東京メトロ千代田線「赤坂駅」6番出口から徒歩8分550m ②東京メトロ日比谷線「六本木駅」7番出口から徒歩9分650m ③ 都営大江戸線「六本木駅」7番出口から徒歩9分650m ④ 東京メトロ南北線「六本木一丁目駅」1番出口から徒歩10分650m ⑤ 東京メトロ銀座線「溜池山王駅」12番出口から徒歩10分650m ⑵ バスを利用して「赤坂氷川神社」へ ⑥ 都バス 六本木四丁目 ① [渋谷駅前] ⇒[新橋駅前]≪都営バス:都01≫ ・バス乗り場:「新橋駅前」(1番のりば) ・7停留所目(「六本木駅前」の次の停留所) 所要時間約18分  ・9時から17時の間に1時間平均12便~16便 ・「六本木四丁目」停留所で下車し「赤坂氷川神社」まで徒歩7分450m ② [新橋駅前] ⇒[渋谷駅前]≪都営バス:都01≫ ・バス乗り場:「新橋駅駅前(東口)」(4番のりば) ・9停留所目(「本木一丁目駅前」の次の停留所) 所要時間約20分  ・9時から17時の間に1時間平均12便~16便 ・「六本木四丁目」停留所で下車し「赤坂氷川神社」まで徒歩7分450m 03_【「赤坂氷川神社」の見どころ】 ⑴ 「社殿」 享保15年(1730年)に八代将軍「徳川吉宗」の命より建立されました。この「社殿」は、「本殿」、「幣殿」、「拝殿」の三つの建物が一体となった、いわゆる権現造りの形式です。当時は幕府による倹約政策が進められていたため、「社殿」には質実かつ簡素な気風が表れています。通常は将軍の寄進するような社寺であれば、軒下の組物を何重にも重ねたり、彫刻や彩色などで飾り立てたりするのですが、この「社殿」の組物は簡素で、彫刻も目立ちません。ただ、将軍の寄進だけあって、大きな「雲形組物」や「吹寄せ垂木」など重厚な意匠を取り入れる工夫もなされています。また全体は朱塗漆としながら、部分的に黒漆塗や黒色金具を用いることで引き締まった印象となっています数多くの戦災・震災を免れ、建立当時の姿を現代に伝えており、昭和51年(1976年) 7月1日に東京都の有形文化財(建築物)に指定されています。 ⑵ 「四合稲荷」 「四合稲荷」は、東側にある「一の鳥居」をくぐるとすぐ右手にあります。「四合稲荷」の名前の由来は、明治31年(1898年)に「赤坂氷川神社」の近くにあった「古呂故稲荷」、「地頭稲荷」、「本氷川稲荷」、「玉川稲荷」の4社を合祀したことに由来します。また、「赤坂氷川神社」の周辺には勝海舟の屋敷跡や住んでいた跡があります。そして、「勝海舟」により「四社を合祀」、幸福の「しあわせ」、「志を合わせる」をかけ、「四合稲荷」と命名されました。その後、大正14年(1925年)に「鈴降稲荷」と「縁起稲荷」を合祀し、さらに昭和9年(1934年)に「明徳稲荷」を合祀しています。 ⑶ 「西行稲荷」 「四合稲荷」の奥にあるのが「西行稲荷」です。「西行稲荷」は、文政年間の文政8年(1825年)から文政11年の間に調査された「町方書上」のによると、もともとは赤坂田町4丁目にあったようです。町内自身番屋敷地内にあった祠堂で本社は6尺に7尺5寸、拝殿2間4方で前方に3尺に6尺の向拝があったそうです。同5丁目に住んでいた「西行五兵衛」という男が、甲冑を身にまとい、弓矢を携えて狐に乗った姿の鉄の像を拾い、御神体として安置したことが創建の由来と伝えられ、別名「火伏の稲荷」として信仰されてきました。火災除の御神徳があるといわれています。そして、「西行稲荷」は、大正10年(1921年)9月「赤坂氷川神社」境内に遷座してきました。 ⑷ 「九神社」 「九神社」は、正面参道の途中の左手にあります。「九神社」は、かつて境内の各所に鎮座していた「天祖神社」、「春日神社」、「鹿島神社」、「八幡神社」、「諏訪神社」、「秋葉神社」、「厳島神社」、「金刀比羅神社」、「塞神社」の9社を合祀した神社です。それぞれの神社への遥拝所として役割がありました。戦前は仲ノ町小学校(現在の赤坂小学校)に鎮座していましたが、戦後に「赤坂氷川神社」の境内に遷座されました。 ⑸ 「桶新稲荷」 「桶新稲荷」は「社殿」の左手の「山口稲荷」の先にあります。「稲荷社」の主祭神である「宇迦之御魂」は稲の神で、古来は農業神として信仰をされてきました。時代が下り産業が発展すると、「稲荷神」の神格は諸産業の守護神として拡大しました。江戸時代、江戸市中では稲荷神の勧請が盛んに行われたようです。赤坂5丁目の「桶屋」の稲荷もそのうちの一社で、戦後「赤坂氷川神社」に遷されたと伝えられています。 ⑹ 「山口稲荷」 「山口稲荷」は、「社殿」の左手にあります。「山口稲荷」は、終戦後、赤坂3丁目にあった山口邸から遷された神社です。鳥居には享保3年(1718年)銘があり、向かって右側の水盤には文化10年(1813年)、左側の水盤には嘉永4年(1851年)、狛犬の台座には文政8年(1825年)の文字が刻まれていています。これらが奉納された経緯は今となってはわかりませんが、江戸時代を通じて篤い信仰を集めていたことがわかります。 ⑺ 「鳥居」 「赤坂氷川神社」の境内には南側の参道と東側の参道にそれぞれ2基ずつ鳥居があります。「一の鳥居」(南側)には「大正十一壬戌年九月」「麻布 芝 氏子中」と記されており、麻布・芝周辺まで信仰が及んでいたことを知ることができます。また、「一の鳥居」(東側)には「御即位記念 寄附 苗村又右衛門」の銘があり、大正4年(1915年)11月の大正天皇即位の礼に合わせて、氏子惣代の「苗村又右衛門」から奉納されたものです。 ⑻ 「狛犬」 境内には7対もの「狛犬」があり、「赤坂氷川神社」はまさに狛犬の宝庫と呼ぶことができます。それらの多くが祭礼や式典に合わせて奉納されたものであり、「赤坂氷川神社」が地域内の深い信仰を集めてきたことを物語っています。特に、注目すべき「狛犬」は、楼門両脇の「狛犬」です。現在地に「社殿」が建立されるより前の延宝3年(1675年)6月建立の銘があり、都内神社に現存する石造狛犬の中では最も古いものとされます。ちなみに、都内最古の「狛犬は」は、「目黒不動尊」と呼ばれている「瀧泉寺」の承応3年(1654年)の狛犬とされています。そして、「楼門」手前の手水舎付近にある「狛犬」も年代の古いもので、弘化三年(1846)に奉納された狛犬です。次に、東参道に目をやってみると、東側の「一の鳥居」の参道には、昭和初期、大正、明治と時代を遡るように狛犬が配置されていまます。まず、東側の「一の鳥居」前にある「狛犬」は、昭和12年(1937年)に奉納されたものです。太平洋戦争前の建立された狛犬で、数多くある狛犬の中で一番新しいものです。そして、石段の手前にある「狛犬」は、大正4年(1915年)に奉納されたものです。石段を上がると一対の「獅子山」が見えてきます。この立派な「獅子山」は明治15年(1882年)に奉納されたものです。 ⑼ 「石灯籠」 「赤坂氷川神社」の境内には、石製の「台灯籠」が合わせて7対奉納されています。ちなみに、「灯籠」とは文字のとおり灯の籠であり、明かりを灯すことで邪気を祓い、神様のご加護を願うためのものです。置いて用いる「台灯籠」と、吊るして用いる「釣灯籠」に大別されます。「楼門」前に安置されている灯籠は、遷座を担当していた老中「水野忠之」が「社殿」の完成を記念して奉納したものです。ここにある4基の石灯籠は、平成7年(1995年)3月27日に港区の登録有形文化財に指定されています。 ⑽ 「大銀杏」 「大銀杏」は、南側にある「一の鳥居」をくぐると右手にある緑地のそびえ立っています。「赤坂氷川神社」の「大銀杏」は推定樹齢400年で、幹の周囲は約7.5mにもなります。「社殿」が現在の地に建立された享保15年(1730年)には、すでに100年を超える樹齢をであったと考えられています。そして、裏から見るとかなりダメージを負っていますが、これは昭和20年(1945年)の東京大空襲によるものです。東京大空襲で幹の大部分を焼損することになりましたが、毎年11月下旬に色鮮やかに黄葉し、見るものに生命力の強さと神秘さを感じさせます。平成6年(1994年)に港区天然記念物に指定されました。ちなみに、「銀杏」は、生きた化石とも言われ、雌雄異株です。「赤坂氷川神社」の「大銀杏」は雄株です。港区内に現存する「銀杏」では最大である善福寺「逆さ銀杏(国指定天然記念物)」に次ぐ大きさです。 ⑾ 「包丁塚」 「包丁塚」は、「大銀杏」のある緑地の左手にあります。「包丁塚」とは、料理人の使い古した包丁を納め、その恩恵に感謝するとともに、調理した動物や魚の霊を慰めるものです。境内の「包丁塚」は、赤坂青山料飲組合が使わなくなった包丁を奉納したもので、昭和49年(1974年)11月に赤坂青山料飲組合によって建立されました。傍らの左側には、「包丁塚30周年記念の碑」も建てられています。なお、「包丁塚」の文字は衆議院議員を務めた田中栄一の書を用いています。 現在、毎年10月上旬の土曜日に包丁塚祭が行われています。 ⑿ 「天水桶」 「天水桶」とは、防火用に雨水をためておく大きな桶のことをいいます。「赤坂氷川神社」には「中門」前と「四合稲荷」前の2対が奉納されています。「中門」前の「天水桶」は、江戸時代に幕府御用を務めた鋳物師「太田六右衛門(釜六)」が鋳造したものです。戦時中の金属供出を逃れ、都内に現存する「釜六」作品の1つとして大変貴重なものだそうです。 ⒀ 「力石」 「力石」は、南側の「一の鳥居」をくぐると左手にあります。この「力石」は、「赤坂氷川神社」境内の土の中から発見されたものです。江戸時代から明治時代まで鍛錬や娯楽として「力石」を用いた力試しが盛んに行われたといわれています。境内の土中から発見された力石には「三拾五貫目」(約130kg)と刻まれています。港区内にある「力石」は、全部で14点になりますが、「力石」のほとんどが海岸沿いの神社に残されているのに対し、この一点だけが海岸から遠く離れていることが興味深い点です。「力石」は、平成7年(1995年)3月27日に港区登録有形民俗文化財に指定されました。 ⒁ 「山車展示場」 「社殿」の右手には、「山車展示場」があります。「山車展示場」では、全国的にも貴重な「江戸型山車」を展示しています。「山車展示場」は、以前駐車場だった一画で、駐車場が別に整備され、令和3年(2021年)9月に「山車展示場」が完成しました。展示されている山車は、全国的にも珍しい「三層型」構造で、高さは7mほどあります。山車はかつて「江戸の祭の華」といわれ、江戸から東京の著名な神社の多くの祭礼に曳き出されました。時代とともにその姿を消してゆくことになりましたが、この地域には奇跡的に山車の一部と、山車人形9体が遺されていたそうです。また、江戸一番の祭は「山王日枝」、「神田明神」の天下祭でしたが、最盛期の「赤坂氷川祭」はそれに次ぐ規模だったそうです。「山車」は、徳川将軍も観るので、江戸城内まで挽き回しがされ、その際、城門をくぐすために最上部の人形が上下するカラクリを備えていました。それが江戸型山車の最大の特徴だそうです。ちなみに、右側の「山車」は「猿」で弘化2年(1845年)に制作されたものです。左側の「山車」は「頼義」で弘化三年(1846)に松雲斎徳山によって製作されました。 ⒂ 「縁結ひ」 縁結びにまつわる「縁結ひ」は、「楼門」をくぐってすぐ左手にあります。実は、「宮神輿庫」になっていた一画でしたが、「山車庫」が完成したため令和5年(2023年)に再整備して、縁結び祈願の「縁結ひ」となりました。私も勉強不足で知らなかったのですが、日本には願いをしたためた紙を社寺の格子に結い、縁結びを願う風習がありました。「赤坂氷川神社」ではこの風習にちなみ、季節の和紙に願い事を書き、その成就を祈る「縁結ひ」を行っています。季節の色の和紙を結い願い事の成就を祈るそうです。

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エリア: 赤坂、六本木
一昔前は高級料亭やバー、クラブなどがひしめく夜の街としてのイメージが強かった赤坂・六本木エリアも、六本木ヒルズのオープンを皮切りに東京ミッドタウン、赤坂サカスなどの複合施設が次々と誕生し、お洒落なスポットに変貌を遂げました。現在では昼から夜まで、刺激を求めて流行に敏感な人々が集まります。また、国立新美術館、森美術館など文化施設も多く、芸術の街としても注目されています。
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Yasu K
東京都心, 東京都1,698件の投稿
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2024年3月 • カップル・夫婦
都会にひっそりと佇む歴史ある神社。それが赤坂 氷川神社です。初めてお参りしましたが、無料駐車場も整備されありがたい限りです。正門の左奥の細い路地から入ると程なくい入口が右手に見えます。神社内には公園もあり親子がサッカーに興じていました。ボール遊びが禁止されている公園も多い中、寛容な対応にも驚きです。境内は綺麗に掃除されており本殿に真っ直ぐ参道が続きます。右手に祭りのお神輿、山車も飾ってあり荘厳な印象です。東京十社巡りにも良いですよ♪
投稿日:2024年3月11日
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junjun
東京都心, 東京都26,229件の投稿
バブル評価 5 段階中 4.0
2023年12月 • 一人
港区赤坂六丁目にある「赤坂氷川神社」についての情報を発信していきます。今回、「赤坂氷川神社」を訪れたのは2023年12月27日です。「赤坂氷川神社」へは、東京メトロ南北線「六本木一丁目駅」が最寄り駅ですが、今回は、「赤坂氷川神社」と忠臣蔵で有名な「南部坂」を途中で見ることを予定していたので、都営大江戸線「六本木駅」を利用しました。東京メトロ日比谷線・都営大江戸線「六本木駅」の6番出口を出て、左方向に350mほど道なりに進むと突き当りになります。途中の左手に「檜町公園」があります。突き当りを左折100mほど進むとまた突き当りになります。そこを左折し、250mほど進むと左手に「赤坂氷川神社」の入口があります。
「赤坂氷川神社」は、港区赤坂にある「氷川神社」で、大都会の赤坂にありながら、江戸時代の面影を残しています。例えば、江戸の年号が刻まれた石碑、灯籠、7対の狛犬と歴史を感じさせる遺産など、江戸時代の歴史が感じられる境内が残っています。「赤坂氷川神社」の歴史と概要を紐解いてみると、「赤坂氷川神社」の創建年代は不詳ですが、天暦5年(951年)に東国を遊行していた「蓮林僧正」が、現在の赤坂4丁目付近の「一ツ木村」で一夜を明かすと夢の中で御祭神のお告げがあり、この地に「氷川明神」の「社殿」を建てお祀りをしたことにはじまります。また、100年後の治暦2年(1066年)の夏の、関東一円を襲った大旱魃があり、苦しむ村人たちが「氷川明神」に雨乞いの祈願をするとたちまち雨が降りはじめたという話も残っています。そして、江戸時代には第8代将軍「徳川吉宗」から篤い崇敬を受け、以後は徳川将軍家より庇護されました。「徳川吉宗」の命によって造営された社殿が現存しています。歴史を振り返ってみれば、現在までに「安政の大地震」、「関東大震災」、「東京大空襲」などがあったにもかかわらず、それらの被災を免れているのは奇跡的とも言えるのではないでしょうか。「氷川」の名称の由来は、出雲国「簸川」(現在の島根県斐伊川)にあるとされ、「簸川」の上流は御祭神「素盞嗚尊」の「八岐大蛇退治」の舞台と伝えられています。

《「赤坂氷川神社」のお薦め参拝巡路》
①「力石」⇒②「大銀杏」⇒③「包丁塚」⇒④「九神社」⇒⑤「山口稲荷」⇒⑥「桶新稲荷」⇒
⑦4基の「石灯籠」⇒⑧「社殿」⇒⑨「縁結ひ」⇒⑩「山車展示場」⇒⑪「四合稲荷」⇒⑫「西行稲荷」⇒
⑬「太鼓橋」⇒⑭「苗村翁頌徳碑」

それでは、早速「赤坂氷川神社」の境内に足を踏み入れます。「赤坂氷川神社」には、南側と東側に二つの「一の鳥居」があります。江戸時代には、東側の「一の鳥居」から入るのが正式なルートであったそうですが、現在では、南側の「一の鳥居」から入るのが一般的というらしいです。赤坂方面から来ると東側の「一の鳥居」が近く、六本木方面からは南側の「一の鳥居」が最寄りとなります。私は、都営大江戸線「六本木駅」を利用したので、南側の「一の鳥居」をくぐりました。
《「力石」》
「一の鳥居」をくぐると右手に「港区立氷川神社遊び場」があり、左手に「力石」があります。江戸時代から明治時代まで鍛錬や娯楽として「力石」を用いた力試しが盛んに行われたといわれています。境内の土中から発見された力石には「三拾五貫目」(約130kg)と刻まれていました。「力石」は、平成7年(1995年)3月27日に港区登録有形民俗文化財に指定されました。
《「大銀杏」と「包丁塚」》
「一の鳥居」の参道を進むと、右手の緑地に「大銀杏」と「包丁塚」があります。「赤坂氷川神社」の「大銀杏」は推定樹齢400年で、幹の周囲は約7.5mにもなります。「社殿」が現在の地に建立された享保15年(1730年)には、すでに100年を超える樹齢をであったと考えられています。そして、裏から見るとかなりダメージを負っていますが、これは昭和20年(1945年)の東京大空襲によるものです。平成6年(1994年)に港区天然記念物に指定されました。
「包丁塚」とは、料理人の使い古した包丁を納め、その恩恵に感謝するとともに、調理した動物や魚の霊を慰めるものです。境内の「包丁塚」は、赤坂青山料飲組合が使わなくなった包丁を奉納したもので、昭和49年(1974年)11月に赤坂青山料飲組合によって建立されました。傍らの左側には、「包丁塚30周年記念」の碑も建てられています。
《「九神社」》
「一の鳥居」の参道に戻り、少し進むと左手に「九神社」があります。「九神社」は、かつて境内の各所に鎮座していた「天祖神社」、「春日神社」、「鹿島神社」、「八幡神社」、「諏訪神社」、「秋葉神社」、「厳島神社」、「金刀比羅神社」、「塞神社」の9社を合祀した神社です。それぞれの神社への遥拝所として役割がありました。戦前は仲ノ町小学校(現在の赤坂小学校)に鎮座していましたが、戦後に「赤坂氷川神社」の境内に遷座されました。
《「山口稲荷」と「桶新稲荷」》
「三の鳥居」の手前の道を左方向進むと「社殿」の左側に、「山口稲荷」と「桶新稲荷」があります。
「山口稲荷」は、終戦後、赤坂3丁目にあった山口邸から遷された神社です。鳥居には享保3年(1718年)銘があり、向かって右側の水盤には文化10年(1813年)、左側の水盤には嘉永4年(1851年)、狛犬の台座には文政8年(1825年)の文字が刻まれていています。
「桶新稲荷」は「社殿」の左手の「山口稲荷」の先にあります。「稲荷社」の主祭神である「宇迦之御魂」は稲の神で、古来は農業神として信仰をされてきました。時代が下り産業が発展すると、「稲荷神」の神格は諸産業の守護神として拡大しました。江戸時代、江戸市中では稲荷神の勧請が盛んに行われたようです。赤坂5丁目の「桶屋」の稲荷もそのうちの一社で、戦後「赤坂氷川神社」に遷されたと伝えられています。
《4基の「石灯籠」》
「三の鳥居」まで戻り、さらに先に進むと「手水舎」があり、「楼門」の両側には、平成7年(1995年)3月27日に港区の登録有形文化財に指定された4基の「石灯籠」があります。「楼門」前に安置されている灯籠は、遷座を担当していた老中「水野忠之」が「社殿」の完成を記念して奉納したものです。
《社殿》
「社殿」は、享保15年(1730年)に八代将軍「徳川吉宗」の命より建立されました。この「社殿」は、「本殿」、「幣殿」、「拝殿」の三つの建物が一体となった、いわゆる権現造りの形式です。当時は幕府による倹約政策が進められていたため、「社殿」には質実かつ簡素な気風が表れています。通常は将軍の寄進するような社寺であれば、軒下の組物を何重にも重ねたり、彫刻や彩色などで飾り立てたりするのですが、この「社殿」の組物は簡素で、彫刻も目立ちません。ただ、将軍の寄進だけあって、大きな「雲形組物」や「吹寄せ垂木」など重厚な意匠を取り入れる工夫もなされています。昭和51年(1976年) 7月1日に東京都の有形文化財(建築物)に指定されています。
《縁結ひ》
縁結びにまつわる「縁結ひ」は、「楼門」をくぐってすぐ左手にあります。実は、「宮神輿庫」になっていた一画でしたが、「山車庫」が完成したため令和5年(2023年)に再整備して、縁結び祈願の「縁結ひ」となりました。日本には願いをしたためた紙を社寺の格子に結い、縁結びを願う風習がありました。「赤坂氷川神社」ではこの風習にちなみ、季節の和紙に願い事を書き、その成就を祈る「縁結ひ」を行っています。季節の色の和紙を結い願い事の成就を祈るそうです。
《山車展示場》
「社殿」の右手には、「山車展示場」があります。「山車展示場」では、全国的にも貴重な「江戸型山車」を展示しています。「山車展示場」は、以前駐車場だった一画で、駐車場が別に整備され、令和3年(2021年)9月に「山車展示場」が完成しました。展示されている山車は、全国的にも珍しい「三層型」構造で、高さは7mほどあります。江戸一番の祭は「山王日枝」、「神田明神」の天下祭でしたが、最盛期の「赤坂氷川祭」はそれに次ぐ規模だったそうです。「山車」は、徳川将軍も観るので、江戸城内まで挽き回しがされ、その際、城門をくぐすために最上部の人形が上下するカラクリを備えていました。それが江戸型山車の最大の特徴だそうです。ちなみに、右側の「山車」は「猿」で弘化2年(1845年)に制作されたものです。左側の「山車」は「頼義」で弘化三年(1846)に松雲斎徳山によって製作されました。
《「四合稲荷」》
次は、「四合稲荷」です。「二の鳥居」をくぐり石段を降りると左手に「四合稲荷」と「西行稲荷」が並ぶようにして建っています。「四合稲荷」の名前の由来は、明治31年(1898年)に「赤坂氷川神社」の近くにあった「古呂故稲荷」、「地頭稲荷」、「本氷川稲荷」、「玉川稲荷」の4社を合祀したことに由来します。また、「赤坂氷川神社」の周辺には勝海舟の屋敷跡や住んでいた跡があります。そして、「勝海舟」により「四社を合祀」、幸福の「しあわせ」、「志を合わせる」をかけ、「四合稲荷」と命名されました。その後、大正14年(1925年)に「鈴降稲荷」と「縁起稲荷」を合祀し、さらに昭和9年(1934年)に「明徳稲荷」を合祀しています。
《西行稲荷》
「四合稲荷」の奥にあるのが「西行稲荷」です。「西行稲荷」は、文政年間の文政8年(1825年)から文政11年の間に調査された「町方書上」のによると、もともとは赤坂田町4丁目にあったようです。町内自身番屋敷地内にあった祠堂で本社は6尺に7尺5寸、拝殿2間4方で前方に3尺に6尺の向拝があったそうです。同5丁目に住んでいた「西行五兵衛」という男が、甲冑を身にまとい、弓矢を携えて狐に乗った姿の鉄の像を拾い、御神体として安置したことが創建の由来と伝えられ、別名「火伏の稲荷」として信仰されてきました。火災除の御神徳があるといわれています。そして、「西行稲荷」は、大正10年(1921年)9月「赤坂氷川神社」境内に遷座してきました。
《太鼓橋》
一の鳥居の参道をはさんで「四合稲荷」の反対側に「太鼓橋」があります。高い木々に囲まれ、なかなか風情のある場所で、心を休めることができました。「太鼓橋」の奥には、「苗村翁頌徳碑」もありました。
《一の鳥居(東側)》
最後が「一の鳥居」(東側)です。江戸時代はこちらが正式な入口でした。「一の鳥居」(東側)には「御即位記念 寄附 苗村又右衛門」の銘があり、大正4年(1915年)11月の大正天皇即位の礼に合わせて、氏子惣代の「苗村又右衛門」から奉納されたものです。
そして、最後は東側の「一の鳥居」をくぐると「氷川神社」から命名した「氷川坂」に出ます。

01_【「赤坂氷川神社」の一口メモ】
⑴ 所在地…〒107-0052 東京都港区赤坂6丁目10−12 電話 03-3583-1935
⑵ 開門時間…6:00 社務所受付…9:00~17:00 閉門時間…17:30
⑶ 「赤坂氷川神社」の概要
①社号…赤坂氷川神社 ②御祭神…素盞嗚尊、奇稲田姫命、大己貴命 
③境内社…四合稲荷神社、九殿社、稲荷神社三社
⑷ 御神徳…厄除 縁結び 家内安全 商売繁昌
⑸ 「赤坂氷川神社」の文化財等
①氷川神社社殿…東京都指定文化財、昭和51年(1976年)7月1日
②奉納絵馬7点…東京都港区指定文化財、平成16年(2004年)10月26碑
③氷川神社の石燈籠四基…東京都港区指定文化財、平成7年(1995年)3月27日
④氷川神社のイチョウ…東京都港区指定文化財、平成6年(1994年)9月27日
⑤祭礼山車行列額絵…東京都港区指定有形文化財、平成11年(1999年)10月12日
⑥旧紀州家 櫓太鼓…東京都港区指定有形文化財歴史資料、平成10年(1998年)4月9日
⑦御祭礼番附留…東京都港区指定有形文化財古記録、平成3年(1991年)10月9日
 ⑧徳川将軍家朱印状 付目録・条目・写し(7通)…港区指定有形文化財古記録、昭和62年(1987年)10月28日
⑨月岡芳年筆「ま」組火消し絵馬…東京都港区指定有形文化財絵画、平成5年(1993年)9月28日
⑩力石…東京都港区指定有形文化財、平成7年(1995年)3月27日

02_【「赤坂氷川神社」へのアクセス】
⑴ 電車を利用して「赤坂氷川神社」へ
①東京メトロ千代田線「赤坂駅」6番出口から徒歩8分550m
②東京メトロ日比谷線「六本木駅」7番出口から徒歩9分650m
③ 都営大江戸線「六本木駅」7番出口から徒歩9分650m
④ 東京メトロ南北線「六本木一丁目駅」1番出口から徒歩10分650m
⑤ 東京メトロ銀座線「溜池山王駅」12番出口から徒歩10分650m
⑵ バスを利用して「赤坂氷川神社」へ
⑥ 都バス 六本木四丁目
① [渋谷駅前] ⇒[新橋駅前]≪都営バス:都01≫
・バス乗り場:「新橋駅前」(1番のりば)
・7停留所目(「六本木駅前」の次の停留所) 所要時間約18分 
・9時から17時の間に1時間平均12便~16便
・「六本木四丁目」停留所で下車し「赤坂氷川神社」まで徒歩7分450m
② [新橋駅前] ⇒[渋谷駅前]≪都営バス:都01≫
・バス乗り場:「新橋駅駅前(東口)」(4番のりば)
・9停留所目(「本木一丁目駅前」の次の停留所) 所要時間約20分 
・9時から17時の間に1時間平均12便~16便
・「六本木四丁目」停留所で下車し「赤坂氷川神社」まで徒歩7分450m

03_【「赤坂氷川神社」の見どころ】
⑴ 「社殿」
享保15年(1730年)に八代将軍「徳川吉宗」の命より建立されました。この「社殿」は、「本殿」、「幣殿」、「拝殿」の三つの建物が一体となった、いわゆる権現造りの形式です。当時は幕府による倹約政策が進められていたため、「社殿」には質実かつ簡素な気風が表れています。通常は将軍の寄進するような社寺であれば、軒下の組物を何重にも重ねたり、彫刻や彩色などで飾り立てたりするのですが、この「社殿」の組物は簡素で、彫刻も目立ちません。ただ、将軍の寄進だけあって、大きな「雲形組物」や「吹寄せ垂木」など重厚な意匠を取り入れる工夫もなされています。また全体は朱塗漆としながら、部分的に黒漆塗や黒色金具を用いることで引き締まった印象となっています数多くの戦災・震災を免れ、建立当時の姿を現代に伝えており、昭和51年(1976年) 7月1日に東京都の有形文化財(建築物)に指定されています。
⑵ 「四合稲荷」
「四合稲荷」は、東側にある「一の鳥居」をくぐるとすぐ右手にあります。「四合稲荷」の名前の由来は、明治31年(1898年)に「赤坂氷川神社」の近くにあった「古呂故稲荷」、「地頭稲荷」、「本氷川稲荷」、「玉川稲荷」の4社を合祀したことに由来します。また、「赤坂氷川神社」の周辺には勝海舟の屋敷跡や住んでいた跡があります。そして、「勝海舟」により「四社を合祀」、幸福の「しあわせ」、「志を合わせる」をかけ、「四合稲荷」と命名されました。その後、大正14年(1925年)に「鈴降稲荷」と「縁起稲荷」を合祀し、さらに昭和9年(1934年)に「明徳稲荷」を合祀しています。
⑶ 「西行稲荷」
「四合稲荷」の奥にあるのが「西行稲荷」です。「西行稲荷」は、文政年間の文政8年(1825年)から文政11年の間に調査された「町方書上」のによると、もともとは赤坂田町4丁目にあったようです。町内自身番屋敷地内にあった祠堂で本社は6尺に7尺5寸、拝殿2間4方で前方に3尺に6尺の向拝があったそうです。同5丁目に住んでいた「西行五兵衛」という男が、甲冑を身にまとい、弓矢を携えて狐に乗った姿の鉄の像を拾い、御神体として安置したことが創建の由来と伝えられ、別名「火伏の稲荷」として信仰されてきました。火災除の御神徳があるといわれています。そして、「西行稲荷」は、大正10年(1921年)9月「赤坂氷川神社」境内に遷座してきました。
⑷ 「九神社」
「九神社」は、正面参道の途中の左手にあります。「九神社」は、かつて境内の各所に鎮座していた「天祖神社」、「春日神社」、「鹿島神社」、「八幡神社」、「諏訪神社」、「秋葉神社」、「厳島神社」、「金刀比羅神社」、「塞神社」の9社を合祀した神社です。それぞれの神社への遥拝所として役割がありました。戦前は仲ノ町小学校(現在の赤坂小学校)に鎮座していましたが、戦後に「赤坂氷川神社」の境内に遷座されました。
⑸ 「桶新稲荷」
「桶新稲荷」は「社殿」の左手の「山口稲荷」の先にあります。「稲荷社」の主祭神である「宇迦之御魂」は稲の神で、古来は農業神として信仰をされてきました。時代が下り産業が発展すると、「稲荷神」の神格は諸産業の守護神として拡大しました。江戸時代、江戸市中では稲荷神の勧請が盛んに行われたようです。赤坂5丁目の「桶屋」の稲荷もそのうちの一社で、戦後「赤坂氷川神社」に遷されたと伝えられています。
⑹ 「山口稲荷」
「山口稲荷」は、「社殿」の左手にあります。「山口稲荷」は、終戦後、赤坂3丁目にあった山口邸から遷された神社です。鳥居には享保3年(1718年)銘があり、向かって右側の水盤には文化10年(1813年)、左側の水盤には嘉永4年(1851年)、狛犬の台座には文政8年(1825年)の文字が刻まれていています。これらが奉納された経緯は今となってはわかりませんが、江戸時代を通じて篤い信仰を集めていたことがわかります。
⑺ 「鳥居」
「赤坂氷川神社」の境内には南側の参道と東側の参道にそれぞれ2基ずつ鳥居があります。「一の鳥居」(南側)には「大正十一壬戌年九月」「麻布 芝 氏子中」と記されており、麻布・芝周辺まで信仰が及んでいたことを知ることができます。また、「一の鳥居」(東側)には「御即位記念 寄附 苗村又右衛門」の銘があり、大正4年(1915年)11月の大正天皇即位の礼に合わせて、氏子惣代の「苗村又右衛門」から奉納されたものです。
⑻ 「狛犬」
境内には7対もの「狛犬」があり、「赤坂氷川神社」はまさに狛犬の宝庫と呼ぶことができます。それらの多くが祭礼や式典に合わせて奉納されたものであり、「赤坂氷川神社」が地域内の深い信仰を集めてきたことを物語っています。特に、注目すべき「狛犬」は、楼門両脇の「狛犬」です。現在地に「社殿」が建立されるより前の延宝3年(1675年)6月建立の銘があり、都内神社に現存する石造狛犬の中では最も古いものとされます。ちなみに、都内最古の「狛犬は」は、「目黒不動尊」と呼ばれている「瀧泉寺」の承応3年(1654年)の狛犬とされています。そして、「楼門」手前の手水舎付近にある「狛犬」も年代の古いもので、弘化三年(1846)に奉納された狛犬です。次に、東参道に目をやってみると、東側の「一の鳥居」の参道には、昭和初期、大正、明治と時代を遡るように狛犬が配置されていまます。まず、東側の「一の鳥居」前にある「狛犬」は、昭和12年(1937年)に奉納されたものです。太平洋戦争前の建立された狛犬で、数多くある狛犬の中で一番新しいものです。そして、石段の手前にある「狛犬」は、大正4年(1915年)に奉納されたものです。石段を上がると一対の「獅子山」が見えてきます。この立派な「獅子山」は明治15年(1882年)に奉納されたものです。
⑼ 「石灯籠」
「赤坂氷川神社」の境内には、石製の「台灯籠」が合わせて7対奉納されています。ちなみに、「灯籠」とは文字のとおり灯の籠であり、明かりを灯すことで邪気を祓い、神様のご加護を願うためのものです。置いて用いる「台灯籠」と、吊るして用いる「釣灯籠」に大別されます。「楼門」前に安置されている灯籠は、遷座を担当していた老中「水野忠之」が「社殿」の完成を記念して奉納したものです。ここにある4基の石灯籠は、平成7年(1995年)3月27日に港区の登録有形文化財に指定されています。
⑽ 「大銀杏」
「大銀杏」は、南側にある「一の鳥居」をくぐると右手にある緑地のそびえ立っています。「赤坂氷川神社」の「大銀杏」は推定樹齢400年で、幹の周囲は約7.5mにもなります。「社殿」が現在の地に建立された享保15年(1730年)には、すでに100年を超える樹齢をであったと考えられています。そして、裏から見るとかなりダメージを負っていますが、これは昭和20年(1945年)の東京大空襲によるものです。東京大空襲で幹の大部分を焼損することになりましたが、毎年11月下旬に色鮮やかに黄葉し、見るものに生命力の強さと神秘さを感じさせます。平成6年(1994年)に港区天然記念物に指定されました。ちなみに、「銀杏」は、生きた化石とも言われ、雌雄異株です。「赤坂氷川神社」の「大銀杏」は雄株です。港区内に現存する「銀杏」では最大である善福寺「逆さ銀杏(国指定天然記念物)」に次ぐ大きさです。
⑾ 「包丁塚」
「包丁塚」は、「大銀杏」のある緑地の左手にあります。「包丁塚」とは、料理人の使い古した包丁を納め、その恩恵に感謝するとともに、調理した動物や魚の霊を慰めるものです。境内の「包丁塚」は、赤坂青山料飲組合が使わなくなった包丁を奉納したもので、昭和49年(1974年)11月に赤坂青山料飲組合によって建立されました。傍らの左側には、「包丁塚30周年記念の碑」も建てられています。なお、「包丁塚」の文字は衆議院議員を務めた田中栄一の書を用いています。 現在、毎年10月上旬の土曜日に包丁塚祭が行われています。
⑿ 「天水桶」
「天水桶」とは、防火用に雨水をためておく大きな桶のことをいいます。「赤坂氷川神社」には「中門」前と「四合稲荷」前の2対が奉納されています。「中門」前の「天水桶」は、江戸時代に幕府御用を務めた鋳物師「太田六右衛門(釜六)」が鋳造したものです。戦時中の金属供出を逃れ、都内に現存する「釜六」作品の1つとして大変貴重なものだそうです。
⒀ 「力石」
「力石」は、南側の「一の鳥居」をくぐると左手にあります。この「力石」は、「赤坂氷川神社」境内の土の中から発見されたものです。江戸時代から明治時代まで鍛錬や娯楽として「力石」を用いた力試しが盛んに行われたといわれています。境内の土中から発見された力石には「三拾五貫目」(約130kg)と刻まれています。港区内にある「力石」は、全部で14点になりますが、「力石」のほとんどが海岸沿いの神社に残されているのに対し、この一点だけが海岸から遠く離れていることが興味深い点です。「力石」は、平成7年(1995年)3月27日に港区登録有形民俗文化財に指定されました。
⒁ 「山車展示場」
「社殿」の右手には、「山車展示場」があります。「山車展示場」では、全国的にも貴重な「江戸型山車」を展示しています。「山車展示場」は、以前駐車場だった一画で、駐車場が別に整備され、令和3年(2021年)9月に「山車展示場」が完成しました。展示されている山車は、全国的にも珍しい「三層型」構造で、高さは7mほどあります。山車はかつて「江戸の祭の華」といわれ、江戸から東京の著名な神社の多くの祭礼に曳き出されました。時代とともにその姿を消してゆくことになりましたが、この地域には奇跡的に山車の一部と、山車人形9体が遺されていたそうです。また、江戸一番の祭は「山王日枝」、「神田明神」の天下祭でしたが、最盛期の「赤坂氷川祭」はそれに次ぐ規模だったそうです。「山車」は、徳川将軍も観るので、江戸城内まで挽き回しがされ、その際、城門をくぐすために最上部の人形が上下するカラクリを備えていました。それが江戸型山車の最大の特徴だそうです。ちなみに、右側の「山車」は「猿」で弘化2年(1845年)に制作されたものです。左側の「山車」は「頼義」で弘化三年(1846)に松雲斎徳山によって製作されました。
⒂ 「縁結ひ」
縁結びにまつわる「縁結ひ」は、「楼門」をくぐってすぐ左手にあります。実は、「宮神輿庫」になっていた一画でしたが、「山車庫」が完成したため令和5年(2023年)に再整備して、縁結び祈願の「縁結ひ」となりました。私も勉強不足で知らなかったのですが、日本には願いをしたためた紙を社寺の格子に結い、縁結びを願う風習がありました。「赤坂氷川神社」ではこの風習にちなみ、季節の和紙に願い事を書き、その成就を祈る「縁結ひ」を行っています。季節の色の和紙を結い願い事の成就を祈るそうです。
投稿日:2024年1月7日
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infra-redのクズ
東北地方7,050件の投稿
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2021年12月 • 一人
檜町公園の北東側にあるジンジャ・シュラインです。所謂、東京十社のひとつです。都会の只中にありますが、落ち着いた、静かなアトモスフィアにつつまれていました。
投稿日:2022年11月11日
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japanese doremi
中央区, 東京都16,138件の投稿
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2022年11月
埼玉県、東京都に多い「氷川系の神社」。こちらは赤坂にある氷川神社です。
かつて、日本の地方行政区分であった、現在の東京都、埼玉県、神奈川県川崎市、横浜市にあたる「武蔵国」に多い「氷川系の神社」ですね。
こちら「赤坂の氷川神社」のご祭神は、「素盞嗚尊(武の神)」「奇稲田姫命(豊穣の神)」「大己貴命(穀物の神)」です。鎮座より、千年ほど経っているそうで、江戸時代、徳川吉宗公の建立が現在の「赤坂氷川神社」の姿だそうです。
ちなみに、現代に通ずる、いわゆる政治家御用達「赤坂料亭」といわれるような、料亭の町、包丁塚もありました。赤坂らしい「塚」ですね。
トータルすると見た感じ、気品あふれる神社であり、所々に古そうな江戸時代の名残りも見受けられ、良い感じの神社でした。
それにしても赤坂は「坂」という感じがあるだけに坂の多いエリアでした。
投稿日:2022年11月9日
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LTB511
日本35,087件の投稿
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2021年11月
赤坂駅から徒歩10分弱。
951年創建。1730年に8代将軍徳川吉宗の命により現在地に遷座。祭神は素盞嗚尊、奇稲田姫命、大己貴命。現社殿は1730年築で総欅造り銅板葺き朱塗り。境内には樹齢400年の大イチョウが聳えている。境内社に勝海舟命名の四合(しあわせ)稲荷神社がある。
投稿日:2022年2月8日
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mios369
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2021年11月 • ファミリー
姪っ子の七五三のお祝いで妹家族と訪れましたが、穏やかにおめでとうございますとすれ違う度にお祝いの言葉をいただき、嬉しく思いました。ちょうど銀杏の木の黄葉している時季で、境内も美しかったです。
投稿日:2021年11月26日
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2021年10月 • 友達
赤坂氷川神社
社号:赤坂氷川神社
祭神:奇稲田姫命 大己貴神
境内社:四号稲荷神社、九段社、稲荷神社三社
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赤坂氷川神社は
古呂故ヶ丘(赤坂小学校台地)に
天暦5年(951)に創建したのが有力
徳川吉宗が将軍に就くにあたり、
享保14年(1729)当地に遷座
東京十社の一つ
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六本木ヒルズやら東京ミッドタウンやら
高層ビル群を見上げながら
住宅街を散策すると
鬱蒼とした木々に覆われた
静かな癒しの空間が突如現れます
こちらが赤坂氷川神社です
歴史ある境内の大銀杏は圧巻
赤茶色の社殿の雰囲気は
神々が宿る落ち着ける佇まい
都会のオアシス的な素敵なお寺です
投稿日:2021年10月25日
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あんず2000
東京4,288件の投稿
バブル評価 5 段階中 4.0
2021年4月
六本木駅から赤坂方面にむかつ途中にあり、立ち寄りました。このあたりは六本木のにぎやかな感じとは違い、住宅地エリアにあり、おちついた雰囲気でした。コロナ対策でお手水のところが水がながれているようになっていて、お花がおかれていて風情がありました。こんな都会で落ち着く場所です
投稿日:2021年4月4日
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白熊爺
港区, 東京都16,074件の投稿
バブル評価 5 段階中 5.0
2020年12月
12月31日に訪問。
この神社には年に二回、大祓式があります。
6月と12月の晦日にあります。

私はこの神社の氏子ですので毎回お祓いしていただいでいて今回もお願いいたしました。

夕方17時から式がありますが今年は某肺炎の影響で形代の受付のみです。

今年はステイホームで他所から来る人も少ないようですからゆったりお参りできました。
投稿日:2021年1月2日
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taira-ne
ロサンゼルス497件の投稿
バブル評価 5 段階中 3.0
2020年12月 • 一人
山手線内にも江戸幕府よりも昔の歴史が残っているのだなという驚きがありました。溜池から六本木に向かって登る途中の丘にあるという感じです。
投稿日:2020年12月9日
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