足立区の神社/寺院/教会/モニュメントなど
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155件の検索結果:旅行者のおすすめ順
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155件中1~30件の結果を表示中
旅行者の口コミ
- reiya19992,581件の投稿1月2日の夕方に初詣で訪問しました。それなりに混雑しているかと思いましたが、比較的スムーズに参拝することが出来ました。入場規制も無く、そこまでの混雑はありませんでした。元旦は行ってないので分かりませんが、もっと混み合っている可能性があります。人混みを避けたい方は、2日以降がオススメです。境内は出店がかなり出店していました。ケバブのお店が多かったのが印象的でした。なお、周辺には老舗の和菓子屋さんなどがありますが、夕方はすでに完売していました。和菓子屋さんなどに行かれる方は、明るい時間帯のうちが良いかと思います。投稿日:2023年1月8日この口コミはTripadvisor LLCのものではなく、メンバー個人の主観的な意見です。 トリップアドバイザーでは、投稿された口コミの確認を行っています。
- junjun東京都心, 東京都26,400件の投稿足立区の魅力発信の第40回目は、足立区千住にある「勝専寺」についての情報を発信していきます。「勝専寺」を訪れたのは、2023年9月28日です。最初に「勝専寺」へのアクセスからスタートします。「勝専寺」へのアクセスは、「北千住駅」には、JR常磐線、東武スカイツリー線、つくばエックスプレス線、東京メトロ日比谷線及び東京メトロ千代田線の5路線が乗り入れしています。西口出口から出て駅前のロータリーを回り、大きな通りが目の前にあります。それが「北千住駅前通り」でそれを100mほど直進します。2つ目の信号の手前に「りそな銀行」があるのでその角を左折し、「千住ほんちょう商店街」大きな門があるので、「千住ほんちょう商店街の通り(旧日光街道)」をそのまま70mほど直進すると「吉野家」があります。その先の角を右折し、100mほど直進すると道が突き当たります。突き当りを左折し、50mほど進むと右手に「勝専寺」の朱塗りの「山門」があります。ただし、「山門」はしまっているので20m先にある「南門」から境内へ入ります。
「勝専寺」は、浄土宗の寺院です。「勝専寺」は、「新井兵部政勝」が開基となり、「勝専社専阿上人」を開山として文応元年(1260年)に創建されたといわれています。「勝専寺」は、鮮やかな朱塗りの山門から「赤門寺」と呼ばれています。「本堂」は、明治39年(1906年)に建立され、インドの寺院を模し、洪水など天災に備えるために、コンクリートを主体に側面に赤レンガをはめたといわれています。山門にある「三宮神山」の扁額は明治12年(1879年)の明治天皇の勝専寺御巡幸を記念して掲額されたもので、幕末から明治初期の書道家「巻菱潭」の揮毫、「天野徳翁」の彫刻によるもので、足立区の登録有形文化財に指定されています。境内の「閻魔堂」には寛政元年(1789年)に開眼された朱塗りの足立区の登録有形文化財である「木造閻魔王坐像」が安置され、毎年1月15・16日、7月15・16日に開帳されます。また、荒川から引き上げられた「木造千手観音立像」は、足立区の登録文化財に指定され、千住の地名起源の一つとされています。残念ながら非公開です。「南門」から境内に入ると広々とした空間が広がっています。右手には、「鐘楼」、その奥には「閻魔堂」があり、左手奥に本堂があります。「勝専寺」は由緒あるお寺で、2代将軍「徳川秀忠」が鷹狩をした際に休息所となり、3代将軍「徳川家光」は境内にあった茶屋に立ち寄りま、慶安2年(1649年)に「徳川家綱」が日光に社参した際には仮御殿が造られたそうです。
01_【「勝専寺」の一口メモ】
⑴ 住所…〒120-0034 東京都足立区千住2丁目11
⑵ 「勝専寺」の概要
①山号…三宮神山 ②院号…大鷲院 ③寺号…勝専寺 ④御本尊…阿弥陀如来 ⑤宗派…浄土宗
⑶ 「勝専寺」の文化財等
①木造千手観音立像(足立区登録文化財) ②木像閻魔大王坐像(足立区登録文化財)
③三宮神山扁額(足立区登録文化財) ④高橋繁右衛門の冑付具足(足立区登録文化財)
02_【アクセス】
1 電車を利用して「勝専寺」へ
「北千住駅」西口出口 から徒歩6分400m投稿日:2023年10月1日この口コミはTripadvisor LLCのものではなく、メンバー個人の主観的な意見です。 トリップアドバイザーでは、投稿された口コミの確認を行っています。 - きよひろ2,692件の投稿たくさんの提灯が入り口に掲げられていましたよ。
地元の方に、お酉さまと親しまれている歴史のある神社で、
雰囲気がありましたね!!投稿日:2020年3月8日この口コミはTripadvisor LLCのものではなく、メンバー個人の主観的な意見です。 トリップアドバイザーでは、投稿された口コミの確認を行っています。 - junjun東京都心, 東京都26,400件の投稿足立区の魅力発信の第十六回目は、足立区の「千住神社」についての情報を発信していきます。「千住神社」は、駅から少し離れていますが、由緒ある神社でその歴史の奥深さに驚かされます。歴史があるので、見るべきモニュメントはたくさんあります。また、パワースポットの「夫婦銀杏」、ここでしか見ることができない「境内七社」にある「まわる恵比寿様」、そして平和の大切さを今に伝える「防空壕」までありました。まずは、「千住神社」へのアクセスからスタートします。
≪トリアド・インデックス≫
01_【アクセス】
02_【千住神社」の一口メモ】
03_【「千住神社」の歴史と概要】
04_【「千住神社施設案内」】
05_【「千住神社」の見学巡路と訪れてみての感想】
06_【「千住神社」その周辺紹介】
01_【アクセス】
1 徒歩で「千住神社」へ:「北千住駅」西口出口より徒歩15分 1.1km
「北千住駅」には、JR常磐線、東武スカイツリー線、つくばエックスプレス線、東京メトロ日比谷線及び東京メトロ千代田線の5路線が乗り入れしています。それぞれの改札を出て「西口出口」方面へ行きます。一つ目のエスカレーターを降りると正面に丸井に通ずる踊り場があります。それを突き当りまで進むとエスカレーターが左側にあります。エスカレーターを降りると「北千住駅前通り(きたろーど1010)」のアーケード街があるので右折し、アーケード街に沿って450m直進すると5つ目の信号で国道4号線(日光街道)にあたるので、横断歩道を渡り左折します。500m直進すると信号(表示名:千住警察署入口)あります。 横断歩道を通り「はんこ屋さん」過ぎるとポストがあります。ポスト横の道(一方通行)を右に曲がります。一方通行を100m道なりに進むと千住神社」があります。
2 電車を利用して「千住神社」へ
★京成本線「千住大橋駅」を利用して「千住神社」へ 9分700m
「千住大橋駅」の改札口を出て直進すると4号線(日光街道)に突き当たります。それを左折して、500m直進し、三つ目の信号(表示名:千住警察署入口)を左折します。一方通行を100m道なりに進むと千住神社」があります。
02_【「千住神社」の一口メモ】
⑴ 社務所受付時間:8:00~17:00
⑵ 住所・電話:〒120-0043東京都足立区千住宮元町24-1 電話:03-3881-1768
⑶ 「御朱印」について
御朱印は社務所にて、「お書入れ」「お書置き」どちらも対応しています。また兼務社の「八幡神社」(はちまんじんじゃ)の御朱印、「毘沙門様」の御朱印もあります。御朱印は「千住神社」の朱印、右上に「東京足立区千住西森鎮座」、右下に「奥の細道」、初穂料は300円です。
《限定御朱印》
足立区の花火大会をイメージした御朱印です。金、銀のインクを使用して描いていますので夜空に上がった花火のようにキラキラとしています。
① 期間…8月1日~8月31日
② 社務所受付時間…8:00~17:00
③ 初穂料…500円 ※ お書置きのみとなります
03_【「千住神社」の歴史と概要】
「千住神社」は、千住(千寿)に集落が形成され始めた、延長四年(962年)丙戌年、土地鎮護と五穀豊饒を祈って、「伏見稲荷」より分霊を勧請し、「稲荷神社」を創立しました。永承六年(一〇五一年)源義家は、奥州征伐の際、荒川(現千住大橋付近)を渡り、二ッ森(現千住神社)に陣営し、神前に戦勝を祈願したと、古記録に記載されています。更に、弘安二年己卯年(1279年)に武蔵国、「一の宮氷川神社」の御分霊を勧請し、「氷川神社」を創立しました。この為に、鎌倉時代より江戸時代には、ここを「二ッ森」と云っており、旧考録には、代々の将軍が「二ッ森」で、鷹狩りを行ったという記事が記録されています。寛永年間に云って、千住が日光街道の第一宿となり、「千住神社」は、その西方にある為に、「西の森」とも云われた。江戸時代までは、「稲荷神社」と「氷川神社」の二つの神社があったが、明治五年十一月十八日、両社は「村社」と定められ、更に翌六年六月には、「稲荷神社」を「氷川神社」に合祀し、「西森神社」と名を改めた。同年七月五日に、足立区内最高唯一の「郷社」と定められ、更に大正四年十二月十五日以来、「千住神社」と改称した。昭和二十年四月、戦災にあい、全ての建物は焼失したが、三十三年以降、御社殿、社務所、会館、等が再建され、戦前以上に立派に整備された。(境内の掲示より)
《語句の解説①:伏見稲荷大社(ふしみいなりたいしゃ)》
京都府京都市伏見区に鎮座する神社。式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社で、旧社格は官幣大社。全国に約3万社あると云われる稲荷神社の総本社。
《語句の解説②:前九年の役》
奥州の陸奥守に任命された源頼義(みなもとのよりよし)が、奥州(陸奥国)で半独立的な勢力を形成していた有力豪族・安倍氏を滅亡させた戦い。源頼義とその嫡男で「八幡太郎」を名乗った源義家(みなもとのよしいえ)の家系からは、鎌倉幕府を開いた源頼朝が出ており、室町幕府を開いた足利尊氏も祖としたため、「前九年の役」は神話化されていくこととなります。
《語句の解説③:源義家(みなもとのよしいえ)》
源頼義(みなもとのよりよし)の嫡男で、「石清水八幡宮」(京都府八幡市)で元服したことから「八幡太郎」と称し、関東圏の八幡信仰の神社の伝承にその名を見る事も多く、新興武士勢力の象徴とみなされた。義家の家系からは、鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏が出ており、武門の棟梁としての血脈として神話化されていきます。
04_【「千住神社施設案内」】
⑴ 「千住神社」の社号碑と「史跡八幡太郎源義家陣営の地」の石碑
参道入口右手に「千住神社」の社号碑、右隣には「史跡八幡太郎源義家陣営の地」の石碑、永承六年(1051年)、源義家(八幡太郎)は奥州征伐の際、荒川(現・千住大橋付近)を渡り当地に陣営して、神前に戦勝祈願したと伝えられています。
⑵ 千住神社」の由緒の石碑と「千住神社」の解説板及び「千住神社」の保存樹林(足立区指定第25号)
⑶ 「一之鳥居」
「一之鳥居」は、慶応二年(1866年)に建立されたものが現存しています。
⑷ 「防空壕」
”平和の大切さを伝える”「防空壕」:昭和二十年、空襲が激しくなると、東京中に防空壕が作られました。簡易なものから強固な地下壕までいろいろあり身体を守ってきました。(千住神社歴史保存会より)
⑸ 「二之鳥居」
「二之鳥居」は大正十五年(1926)に建立されたものです。
⑹ 「手水舎」
「二之鳥居」潜ると参道の左手に「手水舎」があります。龍の吐水口より水が出て身を清める事ができます。
「手水の作法」…手水とは参観前の前儀として心身を清浄にすることをいいます。
① 柄杓を右手で取り、まず左手を濯ぎます
② 柄杓を左手に持ちかえ、右手を濯ぎます。
③ 柄杓を右手に持ちかえ、左手のひらに水を注ぎ、その水で口を濯ぎます。
④ 最後にもう一度左手を濯ぎ、柄杓を立て残りの水にて柄杓の柄部分を洗い流し、元に戻します。
⑺ 「納札所」
「納札所」は、「手水舎」の左手奥に「納札所」があります。
「納札所」の解説文…ここはお護り頂いた御守・御札を納めるところです。(格子戸を手前に開きお納めください。) お気持ちは社殿正面の賽銭箱へ納めて下さい。近年お焚き上げの規則が厳しくなっております。ぬいぐるみやプラスティック製品等の環境上燃やせない物、また陶器類、金属等の不燃物はお持ち帰りいただき、お塩、お酒を少量まき、お清めののちご処分頂くようお願い申し上げます。(千住神社社務所)
⑻ 「御神木」
「御神木」は、天高くそびえる2本の銀杏の大木、この銀杏は、先の戦争にて千住宮元町のほほ全ての建物が焼失した中で、御祭神御守護のもと、焼け残った御神木であります。寄り添う樹木は「夫婦銀杏」として親しまれており、縁結び、夫婦円満、家内安全、子宝安産の象徴となっております。(足立区指定保存樹)、 現在は両銀杏の間に橋が架かっていて、神橋渡りができる形になっています。また、パワースポットとして人気を博しています。
⑼ 「三之鳥居」
「三之鳥居」は、「手水舎」の先に「三之鳥居」があります。大正十二年(1923)の関東大震災が起きた年に建立されています。
⑽ 「富士塚・千住富士」
「富士塚・千住富士」は、大正十二年(1923)に富士塚と浅間神社が建立。現在の富士塚は昭和十一年(1936)に再築されたもの。千住富士と呼ばれ富士講より崇敬を集めた。「千住富士(御祭神は木花咲耶比売命[このはなさくやひめのみこと]):7月1日の山開きの日のみ登拝可能です。江戸中期に富士信仰が盛んになり「江戸八百八町講中八万人」と言われ、江戸を中心に多くの富士講が生まれ、各地に富士塚が作られました。宿場町として栄えた千住には、多くの富士講があり、活気溢れる土地柄もあり、当社にも富士塚がつくられ、富士信仰の文化が、脈々と受け継がれていました。現在の富士塚は昭和十一年(1936)に再築されたものです。」
《語句の解説:富士塚(ふじづか)》
富士信仰(浅間信仰)に基づき、富士山に模して造営された人工の山や塚のこと。本物の富士山に登拝するのは困難でも富士塚に登って富士を拝めば霊験あらたかとされ、江戸を中心に関東圏には数多くの富士塚が築山される事となった。
⑾ 「神狐像」:
「神狐像」は、参道を進むと途中に一対の神狐像があります。よく見ると獅子山ならぬ狐山があり、狐が山の山頂にいます。「千住神社」は稲荷様と氷川様が合祀された神社であるため、稲荷信仰の神使である狐が参道を守っています。神狐像は1928(昭和3)年9月、御大典記念として造立されました
⑿ 「狛犬像」
「狛犬像」は、江戸末期(文政13年5月)に、氏子有志によって献納されたものであるが、その狛犬の姿が“子供を抱える”、“子を護る”とても珍しい姿です。これは御祭神の御神徳、家内安全、商売繁昌、子孫繁栄(良縁)、無病息災(厄除)のお恵みが、特にあらたかであったことによることが理由の一つとされています。
⒀ 「社殿」
「社殿」は、参道を進むと正面に「千住神社」の「社殿」があります。東京大空襲によって「旧社殿」は焼失しました。 戦後の昭和三十三年(1958年)に再建を果たしました。鉄筋コンクリート造で朱色の社殿は、状態もよく整備されています。拝殿前には一対の天水桶があり、安政五年(1858年)に奉納されたものです。幕末の動乱期の幕開けである安政の大獄が始まった頃の天水桶が現存しています。
⒁ 「境内社は社地の北側に七社」
① 番左手から「経王稲荷神社」(宇迦之御魂命)
② 「幸福神社(大国主命・事代主命)・八幡神社(品陀別命)・三峯神社(伊邪那岐命・伊邪那美命・倭建命)」の合殿。恵比寿神社の扁額が掲げられているが、おそらくは大国主命を合祀して幸福神社と改号したのであろう。
③ 「天満宮」(菅原道真)は片葉天神社とも称される。
④ 廻転恵比寿は「末社恵比寿神社」を分霊し、千寿七福神の恵比寿天として祀られた。とても珍しい「まわる恵比寿様」です。願掛けの作法が決まっており、男願掛け方法の方法は、①実際に恵比寿様をお触りいただきながら男性は左へ三回まわし、女性は右へ三回まわしてください。②祈願箇所をハンカチで、それぞれ願いの言葉を三回念じながら三回なでる。③恵比寿様をなでたハンカチはご自宅へお持ち帰りいただき一日三回、なでた場所と同じ部位にあたる自分の身体をなでます。白いハンカチは持参してもよいが、持っていない場合は社務所で初穂料100円にて頂ける。
⑤ もう一社の稲荷、「延命稲荷神社」。こちらの祭神も宇迦之御魂命
⒂ 「神輿庫」
《一之宮大神輿》
文久三年(1863年)製作。「江戸神輿」としては、都内有数の大きさの神輿で、過去『江戸神輿博覧会』において、都内江戸神輿十基の一つに選出された神輿です。五年に一度の九月大祭にて、千住の町を一日巡行渡御致します。
《一之宮大神輿》
明治十八年(1885年)製作。毎年の千住神社例祭において渡御を致します。祭礼日は、九月の第二週土曜、日曜となっております。
05_【「千住神社」の拝観巡路と訪れてみての感想】
⑴ 「千住神社」の拝観巡路(周辺施設も含む)
①:「千住神社」の社号碑と「史跡八幡太郎源義家陣営の地」の石碑」⇒②:「一之鳥居」⇒③:「二之鳥居」⇒④:「手水舎」⇒⑤:「納札所」⇒⑥:「御神木」⇒⑦:「三之鳥居」⇒⑧:「神狐像」⇒⑨:「狛犬像」⇒⑩:「社殿」⇒⑪:「境内社…経王稲荷神社」⇒⑫:「境内社…末社(火伏せ三社)」⇒⑭:「天満宮」⇒⑮:「境内社…廻転恵比寿」⇒⑯:「延命稲荷神社」⇒⑰:「富士塚・千住富士」⇒⑱「神輿庫」⇒⑲:「防空壕」 ⑵ 「千住神社」を訪れてみての感想
⑵ 千住神社」を訪れてみての感想
「千住神社」を訪れた今回の目的は、「奥の細道矢立初めの地」と「千住宿奥の細道プチテラス」を前回訪れてみて、「千住(足立区)と芭蕉」の関係の深さに感銘を受け、これからは足立区で松尾芭蕉に関連のある名称・旧跡を探求してみようと思い立ったからです。「千住神社境内」には、慶応3年(1867年)建立された芭蕉の句碑、『ものいへば唇さむし秋の風』があり「芭蕉」の座右の銘として知られる「人の短を云うことなかれ己の長をとくことなかれ」の部分と標題句が句碑に記されています。その句碑を見るために訪れたのですが、まず、はじめに驚かされたのは、参道入口左手に「足立郷社千住神社」の看板を見た時です。「御鎮座926年足立の歴史とともに…悠久1100年の御神徳」なんと千年以上の歴史のある由緒ある古刹だということです。そして、「千住神社」の参道を奥に進むにつれて千年の歴史あるモニュメントをたくさん発見しました。「千住神社」には、「鳥居」が「一之鳥居」から「三之鳥居」まであり、参道の両側には奉納灯籠が多く置かれて、地域の人々の信仰の深さと「千住神社」がこの地域の人々の心の支えになったということを感じます。そして参道の両側には、芭蕉の句碑はもちろんのこと沢山見るべきものが所狭しとならんでいます。「手水舎」では龍の吐水口より水が出て身を清める事ができます。天高くそびえる2本の銀杏の御神木、足立区指定保存樹として指定されています。そして 現在は夫婦銀杏の間に橋が架かっていて、神橋渡りができる形になっています。特に、パワースポットとして人気があるそうです。私もひそかに願い心に秘めて橋を渡りました。次に、本殿へ行く手前に「神狐像」と「狛犬像」が待ち構えていました。「神狐像」は狐山の頂上に、「狛犬像」は子犬を優しく抱きかかえていました。それぞれ一対の像となっています。参道を進むと正面に「千住神社」の「社殿」が見えてきました。東京大空襲によって「夫婦銀杏」以外の建物は焼失したそうです。もちらん「旧社殿」も例外ではありません。そして、昭和三十三年(1958年)に再建されたものです。拝殿前には一対の天水桶があります。なんか由緒ある古めかしい桶ですが、これがなんと、安政五年(1858年)に奉納されたものです。幕末の動乱期だけでなく、東京大空襲にも難をのがれたということですね。そして、「社殿」の右手奥には「境内社七社」が鎮座しています。この七社の中で特に、興味深かったのが、「願かけ恵比寿像(千住宿千寿七福神)」です。末社恵比寿神社を分霊し「千寿七福神」の恵比寿天として祀られています。とても珍しい「まわる恵比寿様」です。「境内社七社」の隣には、江戸時代中期に信仰が盛んになった「富士塚・千住富士」があり、7月1日の山開きの日のみ登拝可能です。「富士塚・千住富士」を見て出口に向かうと左手に「神輿庫」があります。「神輿庫」の中では「一之宮大神輿」が有名で、五年に一度の九月大祭にて、千住の町を一日かけて巡行するそうです。そして最後に他ではなかなか見られない戦争の爪痕を今に伝える「防空壕」がありました。昭和二十年、東京大空襲が激しくなり、ここに掘られたそうです。とにかく色々なモニュメントがあり、是非、「千住神社」に足を運んでください。周辺にもいろいろな見学スポットも数多くあります。
06_【「千住神社」その周辺紹介】
⑴ 「千住市場(やっちゃ場)」
千住河原町はかつて「やっちゃ場」とよばれた青物市場で、戦前には旧日光街道沿いに多くの青物問屋が軒を連ね、活気あふれる問屋街でした。千住河原町稲荷神社境内には明治39年(1906年)建設の「千住青物市場創立三百三十年祭記念碑」が立っています。これによれば市場開設は天正4年(1576年)になりますが、史料によれば、公的に市場の形をなしたのは享保20年(1735年)でした。青物市場は神田・駒込と並び江戸の三大市場に数えられ、幕府の御用市場でもあったのです。戦前には旧日光街道沿いに多くの青物問屋が軒を連ね、活気あふれる問屋街でした。「やっちゃ、やっちゃ」とは市場の競りのかけ声であったと言われています。
⑵「千住宿奥の細道プチテラス」
千住大橋脇の「東京都卸売市場足立市場」の入口にあるのが、「千住宿奥の細道プチテラス」です。千住循環バス「はるかぜ」の待合所を兼ねたおシャレな作りです。「千住宿奥の細道プチテラス」内には、奥州や北陸など「奥の細道」へここから旅立った高さ1・5メートルの白御影石製の松尾芭蕉像と、「日光道中 千住宿道標」、行灯をかたどった「日光街道 千住宿道標」、千住やっちゃばの小さなお宮にあった欅の木で作った「奥の細道入口、やっちゃ場看板」などがある。
⑶ 「奥の細道矢立初めの地」
奥の細道矢立初めの地 千住大橋の足立側に、奥の細道矢立初めの地の碑があります。俳人松尾芭蕉が奥の細道での紀行最初の一句を詠んだのがこの地なのです。松尾芭蕉「奥の細道」600里の旅の始まりの句を詠んだといわれている場所(矢立初めの地)に建てられた記念碑で、千住大橋公園内にあります。松尾芭蕉は1689年(元禄2)年3月に弟子の曾良を伴って深川(江東区)から船で遡上して千住(足立区)に降り立ち、陸奥へと旅立ちました。芭蕉の俳文紀行「奥の細道」には、「千じゆと云所にて船をあがれば前途三千里のおもひ胸にふさがりて幻のちまたに別離の泪をそゝく」「行春や鳥啼魚の目は泪」と旅立ちの地である千住の情景が記されています。
⑷ 「石洞(せきどう)美術館」
石洞美術館は、美術工藝を通しての国際間の文化交流、相互理解の促進、我が国文化の向上を図るため、2006年4月に公益財団法人美術工芸振興佐藤基金によって設立されました。所蔵品は、佐藤千壽(せんじゅ)の収集したコレクションを核としており、美術館の名称は佐藤の雅号「石洞」からきています。
⑸ 茶館「妙好」(1F隣接)
茶館「妙好(みょうこう)」は石洞美術館に隣接し、石洞美術館の入り口右手にある六角形の建物です。足立区の障がい者団体「友愛会」が運営をし、障がい者の方々の自立訓練および社会参加の場となっているそうです。美味しい手作りのケーキもあり一休みすることができます。
⑹ 「千住大橋」
「千住大橋」は、隅田川の東京都区部にかかる橋で、国道4号が通っています。北岸は足立区千住橋戸町、南岸は荒川区南千住六丁目で、「旧橋」(下り方向)と新橋(上り方向)の二橋で構成されています。
⑺ 「千住宿歴史プチテラス」
「千住宿歴史プチテラス」は、江戸時代の蔵を改装した歴史資料館で、純和風の前庭と奥庭を配し、ツツジ、楓、ウメモドキなど四季折々の彩が美しいプチテラスです。千住四丁目の元地漉紙問屋・横山家の内蔵(土蔵)を平成5年(1993年)に移築したものです。投稿日:2022年8月19日この口コミはTripadvisor LLCのものではなく、メンバー個人の主観的な意見です。 トリップアドバイザーでは、投稿された口コミの確認を行っています。 - junjun東京都心, 東京都26,400件の投稿足立区の魅力発信の第十八回目は、足立区の「千住本氷川神社」についての情報を発信していきます。「千住本氷川神社」へは、「芭蕉」の句碑があるということなので、その足跡を追ってみました。その他、「千寿七福神」であったり、「ラジオ体操発祥の地」であったり、違う側面の発見もしました。それではまずは、「千住本氷川神社」へのアクセスからスタートします。
≪トリアド・インデックス≫
01_【アクセス】
02_【「千住本氷川神社」の一口メモ】
03_【「千住本氷川神社」の歴史と概要】
04_【「千住本氷川神社」施設案内】
05_【「千住本氷川神社」の見学巡路と訪れてみての感想】
01_【アクセス】
1 徒歩で「千住本氷川神社」へ:「北千住駅」西口出口より徒歩6分 500m
「北千住駅」には、JR常磐線、東武スカイツリー線、つくばエックスプレス線、東京メトロ日比谷線及び東京メトロ千代田線の5路線が乗り入れしています。それぞれの改札を出て「西口出口」方面へ行きます。一つ目のエスカレーターを降りると正面に丸井に通ずる踊り場があります。それを突き当りまで進むとエスカレーターが左側にあります。エスカレーターを降りると「北千住駅前通り(きたろーど1010)」のアーケード街があるので右折し、アーケード街に沿って200m直進し、2つ目の信号を右折します。200m直進すると左手に「千住本氷川神社」があります。
02_【「千住本氷川神社」の一口メモ】
⑴ 社務所受付時間:9:00~17:00
⑵ 住所:〒120-0034 東京都足立区千住3丁目22番 電話:03-3881-2857
03_【「千住本氷川神社」の歴史と概要】
「千住本氷川神社」は、足立区千住にある神社です。「千住本氷川神社」のご祭神は、天照大神の弟神で八頭蛇退治で知られているように智・仁・勇の御徳を具えられた神の「素盞鳴尊」(すさのおのみこと)で、毎年9月15日に例大祭が行われます。「千住本氷川神社」の歴史を遡ると、徳治2年(1307年)に下総国千葉氏が、牛田に千葉山西光院と共に氷川社として創建されたと伝えられています。江戸初期に現在地に千葉氏の一族であった。権の兵衛(小林氏)等、地主が土地奉納によって分社を建立しました。明治43年隅田川の洪水を防ぐ為、千住町北側に荒川放水路構築、この用地に鎮座の氷川柱を分社に合祀しました。別当寺の西光院は放水路南、隅田川添いに移築、共に現在に至っています。旧社殿は日光東照宮造営に奉仕した大工が建立したと伝えられていますが、棟札等は判明していません。「本殿」等方一間で流れ作り側面に小鍛冶の超克拝殿は五坪千鳥破風唐破風の向拝に頭貫虹梁部分に流や鳥数の彫刻あり入母屋造り、昭和45年に鉄筋コンクリート銅板葺き社殿を新築しました。「旧社殿」は拝殿を撤去し、向拝部分を本殿上屋に接続し改築して末社とし三峯神社(火防の神)久須志神社(医薬の神)大黒天(招福正成就)が祀られている 区の文化財指定となっています。「参道」は藤棚となっている珍しい神社です。社殿は戦後の昭和45年建造で、鉄筋コンクリート製です。末社久須志神社は、千住本氷川神社の旧社殿で、足立区登録有形文化財となっています。
《境内末社》
① 久須志神社 (大己貴命・少彦名命・岩長姫命)
② 三峯神社 (伊邪那美命・火産霊命)
③ 稲荷神社 (倉稲魂命)
《語句の意味:「末社」とは》
神社では御祭神だけでなく、他の神様もお祀りすることが一般的です。神社の境内にある小さい建物(社)は、御祭神以外の他の神様をお祀りしている社です。この小さい建物(社)のことを、摂社(せっしゃ)や末社(まっしゃ)と呼びます。また、両方を合わせて摂末社(せつまつしゃ)と呼ぶことも。
摂社(せっしゃ)…主祭神に関連のある神様をお祀りする社
末社(まっしゃ)…主祭神や摂社以外の神様をお祀りする社
04_【「千住本氷川神社施設案内」】
⑴ 「鳥居」と「藤棚」
「鳥居」を潜ると「参道」です。「参道」は「藤棚」となっている珍しい神社です。
⑵ 「手水舎」:1860年の建造
⑶ 「ラジオ体操発祥之地」石碑
「千住本氷川神社」では、毎朝6:30 ~ 6:40に年中無休でラジオ体操が行われています。
⑷ 「芭蕉句碑」:『春もややけしきととのふ月と梅』
奥の細道300年を記念して、平成3年(1991年)に建立。もともと文久3年(1863年)の句碑が本社境内にあったが、破損防止のため、郷土博物館に移設保存されました。句は元禄6年(1693年)の旧碑と同じ句が記されました。
「春もややけしきととのふ月と梅」…長い冬が過ぎ去って、梅が咲き始めた。 それだけでも十分春を喜ぶのだが、加えて月も出た。これで早春の役者は十分に揃ったのである。 おだやかな季節の移り変わりをゆったりと画と句に表現する。
⑸ 「旧社殿」
「旧社殿」は拝殿を撤去し、向拝部分を本殿上屋に接続し改築して末社とし三峯神社(火防の神)久須志神社(医薬の神)大黒天(招福正成就)が祀られている 区の文化財指定となっています。
⑺ 「千寿七福神」
「千住本氷川神社」は「千寿七福神」のひとつとして知られています。「千寿七福神」は、足立区千住地域にある七神社で構成される七福神めぐりです。平成20年に構成寺社が変更され、寺院・神社混成の七福神から、神社のみを巡る七福神となりました。
① 「河原町稲荷神社(福禄寿)」足立区千住河原町10-13
② 「仲町氷川神社(弁財天)」 足立区千住仲町48-2
③ 「千住本氷川神社(大黒天)」足立区千住3-22
④ 「大川町氷川神社(布袋尊)」足立区千住大川町12-3
⑤ 「元宿神社(寿老神)」足立区千住元宿33-4
⑥ 「千住神社(恵比寿神)」足立区千住宮元町24-1
⑦ 「白幡八幡神社(毘沙門天)」足立区千住宮元町3-8
⑻ 「境内社:三精稲荷神社」
《境内末社》
① 久須志神社 (大己貴命・少彦名命・岩長姫命)
② 三峯神社 (伊邪那美命・火産霊命)
③ 稲荷神社 (倉稲魂命)
《語句の意味:「末社」》
神社では御祭神だけでなく、他の神様もお祀りすることが一般的です。神社の境内にある小さい建物(社)は、御祭神以外の他の神様をお祀りしている社です。この小さい建物(社)のことを、摂社(せっしゃ)や末社(まっしゃ)と呼びます。また、両方を合わせて摂末社(せつまつしゃ)と呼ぶことも。
摂社(せっしゃ)…主祭神に関連のある神様をお祀りする社
末社(まっしゃ)…主祭神や摂社以外の神様をお祀りする社
⑼ 「江戸構え獅子」
本殿の前に鎮座している一対の「狛犬」は「江戸構え獅子」と呼ばれるもので伏せをしているような低い体勢なのが特徴的です。
⑽ 「社殿」
徳治二年、千葉氏が千住三丁目牛田に、千葉山西光院と氷川神社を創建。千住町が宿場町として栄え始めた江戸初期、現在地に地主の土地奉納によって分社を建立しました。明治四十三年荒川放水路構築の折、牛田氷川神社を合祀しました。
05_【「千住本氷川神社」の見学巡路と訪れてみての感想】
⑴ 見学巡路(周辺施設も含む)
①:「鳥居」⇒②:「手水舎」⇒③:「ラジオ体操発祥之地」⇒④:「芭蕉句碑」⇒⑤「旧社殿」⇒⑥:「千寿七福神」⇒⑦:「千寿七福神」⇒⑧:「三精稲荷神社」⇒⑨:「江戸構え獅子」⇒⑩:「社殿」⇒⑪:「社務所」⇒⑪:御御籤掛け⇒⑫:「全体の風景」
⑵ 「千住本氷川神社」を訪れてみての感想
「千住本氷川神社」は、「北千住駅」から歩いてすぐの場所にあり、よく注意してみないと見過ごしてしまいそうな街並みと調和しているこぢんまりとした神社です。「千住本氷川神社」に来た目的は、「芭蕉」の句碑があるという理由からです。鳥居をくぐり藤棚の下を通ってすぐに発見しました。ここの石碑に書かれている句は、「春もややけしきととのふ月と梅」すなわち長い冬が過ぎ去って、梅が咲き始めた。それだけでも十分春を喜ぶのだが、加えて月も出た。これで早春の役者は十分に揃ったのである。おだやかな季節の移り変わりをゆったりと画と句に表現したものです。次に、「手水舎」、日光東照宮の宮大工が手掛けた「旧社殿」など、そして特に目をひいたのが、「社殿」前の一対の「狛犬」です。「江戸構え獅子」と呼ばれるもので伏せをしているような低い体勢なのが特徴的です。敵がいつ襲ってきてもそれに対応し、「社殿」を守るような姿勢を取っているのかもしれませんね。また、ラジオ体操の発祥の地で一年中早朝から地域の人が集まりラジオ体操をしているというのも驚きですね。「千住本氷川神社」は、まさに地域のコミュニケーションの場になっているのですね。いずれにせよ短時間で見学していましますが、ラジオ体操の発祥の地など意外なものに出会えるもですね。「千寿七福神」の一つなので、来年のお正月に巡るのも楽しいものとなるでしょう。投稿日:2022年8月20日この口コミはTripadvisor LLCのものではなく、メンバー個人の主観的な意見です。 トリップアドバイザーでは、投稿された口コミの確認を行っています。 - junjun東京都心, 東京都26,400件の投稿足立区の魅力発信の第二回目は、「炎天寺」についての情報を発信していきます。炎天寺へは小雨の降るなか2022/06/09に行きました。自宅から歩いて距離して約2.7km、40分ほどかかりました。それでは、まずはじめに炎天寺へのアクセスについて説明します。一番最寄りの駅は東武スカイツリーライン「竹ノ塚駅」です。ただし、各駅停車しか止まりませんので、東武スカイツリーライン「西新井駅」から徒歩という手もあります。両方の駅から歩いて行きましたが、ほとんど変わりません。では、それぞれの駅から炎天寺までの分かりやすい経路を説明します。
【アクセス】
《東武スカイツリーライン「竹ノ塚駅」から徒歩》
各駅電車を利用するなら、東武スカイツリーライン「竹ノ塚駅」(各駅のみ停車)で下車し、東口より徒歩約1km、12分ほどで着きます。竹ノ塚駅の改札口を出て左方向に進むと駅のロータリーがあります。それを右方向に道なりに進むと「りそな銀行」が見えてきます。そこを右折し700m約8分で「竹ノ塚第二団地」と「栗六公園」の境目の十字路に到着します。そこを左折すると200m、2分で炎天寺に到着します。
《東武スカイツリーライン「西新井駅」から徒歩》
急行電車を利用するなら「西新井駅」が便利です。東口より徒歩約1.2km、15分ほどで着きます。まず改札を出て左に行き、階段を下りると左側にマックがあります。それを直進して道なりに行くと陸橋下の信号に出ます。(途中に住宅展示場がありますので、間違ってはいらないようしてください。)それをひたすら直進します。約950m、12分で「栗六公園前」の信号に」到着します。それを渡り右に進みます。二つ目の角を曲がると「炎天寺」の看板が視界に入ってきます。無事到着ですね。
【炎天寺の第一印象】
「炎天寺」は住宅地の中にあるお寺でうっかりすると見逃してしまいます。こじんまりしたお寺ですが、かの有名な江戸時代後期の俳人「小林一茶」が寺の周辺をよく散策し句を残したそうです。炎天寺の中にも俳句の石碑や一茶の像もありました。隣には炎天寺と関係のある「八幡神社」があります。八幡神社は六月村の鎮守で、江戸時代には炎天寺が別当を勤めていましたそうです。お寺の大きさや門構えだけでは、そのお寺の良さや真実は見えてこないでしょう。なんと平安期の中ごろに創建されたと伝えられています。そんな歴史があるのと驚きました。ちなみに、文化13年(1816)頃に発表された一茶の作品集『七番日記』の中にある「蝉なくや六月村の炎天寺」「やせ蛙負けるな一茶是にあり」の句碑がありました。俳句で有名な寺だそうです。小さいお寺で、見学する時間はさほどかかりません。
【炎天寺の見学巡路】
炎天寺の入り口を入ると、すぐ右側に石碑、左側に全国から寄せられた俳句の中から選ばれた優秀作品がショーケースの中に掲出してありました。さすが俳句のお寺ですね。ちなみに本堂の賽銭箱の近くには「俳句投句箱」があります。炎天寺来る予定があれば、俳句を一句考えてきて投句するのもおつなものですね。先に進むとお地蔵さんが七体あります。その先に進むと「かえるの七福神」の石塔があり、池があります。この池の中とその周辺に「かえるの七福神」の像が配置されています。「かえるの七福神」の石塔にはそれぞれの神様が表示されています。池の中のどのカエルの像がどの神様か探してみるのも楽しいものですよ。池の反対側には、「子育て地蔵」があり、それをさらに進むと本堂です。本堂の前にはカエルを愛した「小林一茶」の像と開運招福の巨大な「福蛙」の像が仲良く並んでいます。そして本堂へ進むと先ほど説明した「俳句投句箱」とお守り等があります。炎天寺のオリジナルのお守りは、「六福蛙」、「身代わりカエル」です。ちなみにお代は賽銭箱に入れます。そして本堂で蛙のように飛躍できるように願を懸けました。
【炎天寺の歴史と一口メモ】
《炎天寺の歴史》
炎天寺は真言宗豊山派の寺院で、幡勝山成就院炎天寺が正式名称です。八幡太郎こと源義家が奥州討伐でこの地を通った頃が旧暦六月の炎暑の最中であったことから、村名を六月村、寺を炎天寺と名付けたということです。
《一茶まつり》
毎年11月に「一茶まつり」が行われ、一茶の法要や俳句の優秀作品の表彰を行っていましたが、令和4年からは一茶まつり当日に「はいく想像力クイズ」を行うそうです。(未定なので足立区役所に照会してください。)そして一茶まつりのもう一つのメーンイベントが「奉納蛙相撲」です。「奉納蛙相撲」は、小林一茶の詠んだ句、「やせ蛙負けるな一茶これにあり」にちなんで、細身と小太りの2人が、それぞれ緑色のやせ蛙と茶色の大蛙に扮して相撲を取ります。毎年勝敗はつかず引き分けが続いているとのことです。投稿日:2022年6月11日この口コミはTripadvisor LLCのものではなく、メンバー個人の主観的な意見です。 トリップアドバイザーでは、投稿された口コミの確認を行っています。 - junjun東京都心, 東京都26,400件の投稿足立区の魅力発信の第二十一回目は、「カトリック亀有教会」についての情報を発信していきます。2022年8月25日に「カトリック亀有教会」を訪れました。本来「亀有」という町名は葛飾区ですが、実は所在地は足立区東和なのです。今回はJR「亀有駅」から歩いて行くことにしました。一応念のためにJR「亀有駅」の北口(東武バス:有28)と南口(はるかぜ12)からのバスでのアクセスも確認してみました。すると「亀有駅」の北口と南口の両側でおもしろいものを発見しました。それは何と「こちら葛飾区亀有公園前派出所」のキャラクターたちの銅像です。昔は、よくマンガ本を買ってむさぼり読んだものです。懐かしが込み上げてきます。「両さん」、「中川」、「麗子」などのキャラクターそれと北口の昔の面影をとどめた「交番」です。まだまだほかの場所にもたくさんあるというキャラクター捜しマップみたいなものもありました。いずれは全制覇のためチャレンジしたいと思います。写真は投稿してありますので、合わせてご覧ください。そして、「カトリック亀有教会」へ向かいました。途中「葛西用水」の小川の景色もきれいで、また、「足立区立東和親水公園」もあり、途中の風景に目を囚われている間に、あっという間に「カトリック亀有教会」着いてしまいました。通りを隔てまず遠くから見てみました。白を基調とした雰囲気のある教会でした。純白で何の穢れもないという印象です。隣には系列の「聖フランシスコ幼稚園」もありました。校庭の奥には、「マリア像」もありました。今回の目的は、自分自身の心を清めるべくこの聖なる場所を訪れてみました。門を入る手前には「アシジの聖フランシスコ像」があり、優しいまなざしで私を出迎えてくれました。また、正面玄関入口の斜め上には「マリア像」が優しく微笑んでくれました。正面玄関は二重扉になっています。朝9時30分からミサがあったそうですが、「カトリック亀有教会」へ着いたのが、10時30分だったので教会の中には、誰もおらず、厳かではあるもののひっそりと静まり返っていました。「聖堂」に足を踏み入れると言い表すことはできませんが、自分自身の心が落ち着き、世俗の垢を一気に浄化してもらったような気分に陥りました。特に、目を奪われたのは、「ステンドグラス」の調和のとれた美しさです。この「ステンドグラス」は、聖堂吹き抜けいっぱいにはめ込まれたステンドグラスで、両サイドにはブルーの背景に平和の象徴である白いハトがデザインされており、世界平和を希求する願いが込められているそうです。次に目に入ったのが、十字架を挟んで、左には聖痕を受けた「アシジの聖フランシスコ」が、そして右側にはフランシスコを師と仰ぎ、自らを「聖フランシスコの小さき苗木」と呼んだ「聖クララ」が描かれています。調和のとれた美しさを醸し出しています。後ろを振り返ってみると、聖堂に入ってすぐ上の壁には「十字架の道行きの祈り」のためのレリーフが掲げられています。結構な大きさのレリーフが二つ並んでいます。「十字架の道行きの祈り」は、キリストの受難と聖母マリア様の苦しみを分かち合い、また私たち自らの回心の機会にもなるそうです。そして、聖堂中央の赤いランプが灯る真下には、御聖体が入っている「聖櫃」が設置されています。「聖櫃」の扉は最後の晩餐をモチーフにした彫刻が施された鋳物製です。日中祈りたい時にはいつでも、赤ランプの灯る聖堂は全ての人に開かれているそうです。たまにはこんな気持ちになれる静寂な場所に来るのも自分自身を振り返るチャンスを与えられたのだなあ思いました。それではまずアクセスから・・・
≪トリアド・インデックス≫
01_【アクセス】
02_【「カトリック亀有教会」を訪れてみての感想】
03_【「カトリック亀有教会」関連の一口メモ】
04_【「カトリック亀有教会」の見学ポイント】
05_【「カトリック亀有教会」の勉強会~ちょっとだけ詳しく調べてみました!】
01_【アクセス】
1 徒歩で「カトリック亀有教会」へ:「亀有駅」北口出口より徒歩12分 1.0km
「亀有駅」には、JR常磐線と東京メトロ千代田線の2路線が乗り入れしています。改札口を出て右方向の北口へ行きます。北口を出ると駅前のバスローターリーがあります。右折し一つ目すぐの横断歩道を渡り、そのまま「環七南通り」まで420m直進します。途中に足立成和信用金庫亀有駅前支店が右側にありますので、それを過ぎた一つ目の信号の通りが「環七南通り」です。「環七南通り」を左折し、400m直進します。信号を四つ過ぎると今度は「葛西用水桜通り」と道路が交差しますので、それを右折します。250m直進すると左側に「カトリック亀有教会」があります。
2 バスを利用して「カトリック亀有教会」へ
① [亀有駅南口] ⇒[西新井駅東口行]≪はるかぜ:は12≫
・バス乗り場:「亀有駅南口」(17番のりば)
・4停留所目(「東和病院」の次の停留所) 所要時間約8分
・9時から17時の間に1時間平均3~4便
・「東和郵便局前」で下車し「カトリック亀有教会」まで徒歩3分220m
⇒バスを下車した後、バスの進行方向と反対方向に70mほど進むと信号(表示名:「東和四丁目」)があります。それを右折(「葛西用水桜通り」)し、150mほど進むと右側に「カトリック亀有教会」があります。
② [亀有駅北口] ⇒[六ツ木都住・佐野六ツ木循環]≪東武バス:有29(38)≫
・バス乗り場:「亀有駅北口」(1番のりば)
・2停留所目(「亀有五丁目」の次の停留所) 所要時間約3分
・9時から17時の間に1時間平均1~3便
・「東和二丁目」で下車し「カトリック亀有教会」まで徒歩3分260m
⇒バスを下車した後、バスの進行方向と反対方向に55mほど進むと信号があります。それを左折し「葛西用水桜通り」に入ります。200mほど進むと左側に「カトリック亀有教会」があります。
③ [綾瀬西口] ⇒[葛飾車庫・スポーツセンター]≪東武バス:綾23≫
・バス乗り場:「綾瀬駅西口」(6番のりば)
・6停留所目(「東和一丁目東」の次の停留所) 所要時間約8分
・9時から17時の間に1時間平均2~6便
・「東和二丁目」で下車し「カトリック亀有教会」まで徒歩3分260m
⇒バスを下車した後、バスの進行方向と反対方向に55mほど進むと信号があります。それを左折し「葛西用水桜通り」に入ります。200mほど進むと左側に「カトリック亀有教会」があります。
02_【「カトリック亀有教会」を訪れてみての感想】
2022年8月25日に「カトリック亀有教会」を訪れました。本来「亀有」という町名は葛飾区ですが、実は所在地は足立区東和なのです。今回はJR「亀有駅」から歩いて行くことにしました。一応念のためにJR「亀有駅」の北口(東武バス:有28)と南口(はるかぜ12)からのバスでのアクセスも確認してみました。すると「亀有駅」の北口と南口の両側でおもしろいものを発見しました。それは何と「こちら葛飾区亀有公園前派出所」のキャラクターたちの銅像です。昔は、よくマンガ本を買ってむさぼり読んだものです。懐かしが込み上げてきます。「両さん」、「中川」、「麗子」などのキャラクターそれと北口の昔の面影をとどめた「交番」です。まだまだほかの場所にもたくさんあるというキャラクター捜しマップみたいなものもありました。いずれは全制覇のためチャレンジしたいと思います。写真は投稿してありますので、合わせてご覧ください。そして、「カトリック亀有教会」へ向かいました。途中「葛西用水」の小川の景色もきれいで、また、「足立区立東和親水公園」もあり、途中の風景に目を囚われている間に、あっという間に「カトリック亀有教会」着いてしまいました。通りを隔てまず遠くから見てみました。白を基調とした雰囲気のある教会でした。純白で何の穢れもないという印象です。隣には系列の「聖フランシスコ幼稚園」もありました。校庭の奥には、「マリア像」もありました。今回の目的は、自分自身の心を清めるべくこの聖なる場所を訪れてみました。門を入る手前には「アシジの聖フランシスコ像」があり、優しいまなざしで私を出迎えてくれました。また、正面玄関入口の斜め上には「マリア像」が優しく微笑んでくれました。正面玄関は二重扉になっています。朝9時30分からミサがあったそうですが、「カトリック亀有教会」へ着いたのが、10時30分だったので教会の中には、誰もおらず、厳かではあるもののひっそりと静まり返っていました。「聖堂」に足を踏み入れると言い表すことはできませんが、自分自身の心が落ち着き、世俗の垢を一気に浄化してもらったような気分に陥りました。特に、目を奪われたのは、「ステンドグラス」の調和のとれた美しさです。この「ステンドグラス」は、聖堂吹き抜けいっぱいにはめ込まれたステンドグラスで、両サイドにはブルーの背景に平和の象徴である白いハトがデザインされており、世界平和を希求する願いが込められているそうです。次に目に入ったのが、十字架を挟んで、左には聖痕を受けた「アシジの聖フランシスコ」が、そして右側にはフランシスコを師と仰ぎ、自らを「聖フランシスコの小さき苗木」と呼んだ「聖クララ」が描かれています。調和のとれた美しさを醸し出しています。後ろを振り返ってみると、聖堂に入ってすぐ上の壁には「十字架の道行きの祈り」のためのレリーフが掲げられています。結構な大きさのレリーフが二つ並んでいます。「十字架の道行きの祈り」は、キリストの受難と聖母マリア様の苦しみを分かち合い、また私たち自らの回心の機会にもなるそうです。そして、聖堂中央の赤いランプが灯る真下には、御聖体が入っている「聖櫃」が設置されています。「聖櫃」の扉は最後の晩餐をモチーフにした彫刻が施された鋳物製です。日中祈りたい時にはいつでも、赤ランプの灯る聖堂は全ての人に開かれているそうです。たまにはこんな気持ちになれる静寂な場所に来るのも自分自身を振り返るチャンスを与えられたのだなあ思いました。
03_【「カトリック亀有教会」関連の一口メモ】
① 住所:〒120-0003東京都足立区東和4-3-20 電話:03-3606-1757
② 駐車場:約15台有り
04_【「カトリック亀有教会」の見学ポイント】
① 「アシジの聖フランシスコ像」
亀有教会の保護聖人(教会堂名)はアシジの聖フランシスコです。アメリカのサン・フランシスコは彼の名前から付けられたほど全世界の人から崇敬されている聖人です。人を愛し、自然を愛し、動物を愛してやまなかった聖フランシスコは多くの賛歌を歌って神を賛美しました。動物や魚にも説教をしたという伝説があり、また優れた詩人でもあったフランシスコが作った賛歌『兄弟太陽の賛歌』は太陽を兄弟と考え、神によって造られたもの、風も火も自分の兄弟であり、月や星や水も姉妹であり、大地は母であるとして、すべての造られたものは神を讃えよといった、いと高い全能の神への祈りとなっています。またジェットの絵で知られる『小鳥への説教』が有名ですが、亀有教会には鳥やリス、鹿、足元には魚がフランシスコの話に、耳を傾けている様子の銅像があります。
② 「聖堂」
現在の「聖堂」は1991年(H.3)4月に献堂されました。半円形の鉄筋コンクリート2階建で、1階に聖堂がありますが2階まで吹き抜けになっているため、天井が高く、明るい解放的な聖堂です。2022年には教会内外のリフォームが完成しました。1階には、事務所、台所などがあり温水暖房機能付きトイレや車いす専用トイレもあり、聖堂に入る2か所の入り口にはスロープも設けられたバリアフリー構造ですので、車いすの方や杖をついた方でも、不自由なく聖堂に入ることができます。
③ 「十字架」
聖堂正面に掲げられている「十字架」は、イタリアのアッシジ(世界遺産)サン・ダミアノの廃墟同然の教会の中で、聖フランシスコに語りかけ、回心に導いたとされる十字架のレプリカです。実際のものはもう少し小さく、12世紀最初(1100年代)の頃に無名の画家によって描かれたとされています。普通の十字架に見られる、首をたれ目を閉じているキリストとは異なり、くっきりと開いた眼は卓越した人間、生きている者を意味するとされており、他にも聖母マリア、使徒ヨハネ、マリア・マグダレナなど様々な諸聖人、天使たちが、カラフルな彩色で描かれている十字架です。
④ 「ステンドグラス」
聖堂の吹き抜けいっぱいにはめ込まれたステンドグラスは、両サイドにはブルーの背景に平和の象徴である白いハトがデザインされており、世界平和を希求する願いが込められています。全部で何羽のハトがいるでしょう?気になったら、ぜひ数えに来てみてください。十字架を挟んで、左には聖痕を受けたアシジの聖フランシスコが、そして右側にはフランシスコを師と仰ぎ、自らを「聖フランシスコの小さき苗木」と呼んだ聖クララが描かれています。(左から、アシジの聖フランシスコ、聖クララ)
⑤ 「十字架の道行き」
聖堂に入ってすぐ上の壁には「十字架の道行きの祈り」のためのレリーフが掲げられています。「十字架の道行き」の祈りは、キリストの受難と聖母マリア様の苦しみに共に与り、また自らの回心の機会にもなります。四旬節中(灰の水曜日から復活の主日前の節制と回心の準備期間)は、ミサの後に「十字架の道行き」の祈りを皆で唱えるそうです。
⑥「聖櫃」
聖堂中央の赤いランプが灯る真下には、御聖体が入っている「聖櫃」が設置されています。聖櫃の扉は最後の晩餐をモチーフにした彫刻が施された鋳物製です。日中祈りたい時にはいつでも、赤ランプの灯る聖堂は全ての人に開かれています。仕事に行く前や、静かに黙想したい時、一人で自分をかえりみたい時、聖体訪問に時々訪れてみてはいかがでしょう。
05_【「カトリック亀有教会」の勉強会~ちょっとだけ詳しく調べてみました!】
① 「カトリック亀有教会」の歴史
東京の東北部、足立区に位置する「カトリック亀有教会」は、1955年12月に、コンベンツアル聖フランシスコ修道会が、現在の地に幼稚園を開設し、修道院を設立したのを機に、その幼稚園の講堂を聖堂兼用としました。そして1957年8月に荒川区の三河島教会の「巡回教会」として発足しました。14年後の1971年には、東京教区の「小教区」としての認可を受け、亀有教会が誕生しました。聖堂に関しては、最初は、幼稚園の講堂を使用し、次に仮の建物としてプレハブの建物が聖堂として使われていましたが、1991年には信徒の皆さんの一致協力と、修道会の援助により待望の亀有教会と修道院が落成し、献堂式を行いました。 一方、幼稚園は、1958年3月には仁川学院の学校法人に合併しましたが、1990年には仁川学院の学校法人から分離し、あらたに、東京所在の聖フランシスコ幼稚園、聖母の騎士幼稚園、まりあ幼稚園の3カ園が聖コルベ学園学校法人として発足するにいたりました。
《語句の解説》
ア 「司教区」
カトリック教会の基本的な単位は「司教区」と呼ばれるそれぞれの地方の教会です。それぞれの司教区は十二使徒の後継者である「司教」を中心として集っています。
イ 「小教区」
カトリック教会においては、各々の教区(司教区)の中にいくつかの小教区が設置され、それぞれの小教区が「主任教会」と呼ばれる中心となる教会を持っています。小教区には「主任司祭」がいて、小教区に対する責任と権威を持っています。
ウ 「巡回教会」
巡回教会は小教区に属していて、 常設の聖堂をもっていて、定期的に司祭が巡回してくる教会です。建物自体は修道会などが所有していて、小教区はこれを借用する、ということが多いです。
② 教会堂名…アシジの聖フランシスコ
③ 主任司祭…ペトロ・イシュトク O.F.M. Conv.(コンベンツアル聖フランシスコ修道会)投稿日:2022年8月25日この口コミはTripadvisor LLCのものではなく、メンバー個人の主観的な意見です。 トリップアドバイザーでは、投稿された口コミの確認を行っています。 - junjun東京都心, 東京都26,400件の投稿足立区の魅力発信の第99回目は、足立区綾瀬にある「綾瀬稲荷神社」についての情報を発信していきます。「綾瀬稲荷神社」を訪れたのは、2023年5月30日です。最初に「綾瀬稲荷神社」へのアクセスからスタートします。
最初に「綾瀬稲荷神社」へのアクセスからスタートします。「綾瀬稲荷神社」へのアクセスは、JR常磐線・東京メトロ千代田線「綾瀬駅」西口改札を出て右手に進みます。西口を出た所にある満天星歩道を渡り30mほど直進し、一つ目の角を右折します。そのまま道なりに80mほど進むとT字路になっています。右折すると目の前に「観音寺」の「山門」があります。「観音寺」を回り込むように道なり70m進むと「綾瀬稲荷神社」の「鳥居」が右手にあります。
「綾瀬稲荷神社」は足立区綾瀬にある稲荷神社です。「綾瀬稲荷神社」は、京都の「伏見稲荷」を勧請して慶長19年(1614年)に創建されました。かつては、「五兵衛新田」の鎮守社であったといい、明治7年(1874年)に「五兵衛神社」、そして昭和42年(1967年)に「綾瀬稲荷神社」と改称しました。鳥居を潜ると正面に「拝殿」があります。境内の左手には、足立区の登録有形民俗文化財に指定されている「綾瀬稲荷神社富士塚」があります。「綾瀬稲荷神社富士塚」は、「綾瀬富士」、「五兵衛富士」と呼ばれていて、「高さ」が3.5mあり、昭和2年(1927年)に築造されたものです。山頂には「浅間神社」もあります。しかし、現在は残念ながら登拝はできません。「綾瀬稲荷神社富士塚」は、昭和58年(1983年)に足立区の登録有形民俗文化財とされました。また、「綾瀬稲荷神社富士塚」の先には、境内社である「弁天社」もあります。そして、境内の右手には、「手水舎」があり、その奥の方に昭和46年(1971年)に「綾瀬稲荷神社」の境内に遷座された境内社の「三峯神社」があります。そして、参道を進むと、「拝殿」の前にある一対の「狛犬」が目に留まりました。一対の「狛犬」は、足立区に暮らした新作落語を得意とする落語家で、狛犬研究家としても知られた「三遊亭圓丈」が平成20年(2000年)奉納したものです。台座の上に座布団、さらにその前に扇子・手拭・茶托が置かれています。現在は「綾瀬神社」「綾瀬北野神社」とともに、「綾瀬三社」と言われ親しまれています。ただし、この「綾瀬三社」は、全て「綾瀬稲荷神社」の兼務社になっていて、綾瀬稲荷神社」はその中核になっています。
01_【「綾瀬稲荷神社」の一口メモ】
⑴ 住所…〒120-0005 東京都足立区綾瀬4丁目9−9 電話:03-3606-2512
⑵ 「綾瀬稲荷神社」の概要 ①社号…稲荷神社 ②境内社…浅間神社、三峰神社
⑶ 御祭神…宇迦之御魂神
⑷ 綾瀬稲荷神社富士塚(足立区登録有形民俗文化財)
02_【アクセス】
1 電車を利用して「観音寺」へ
JR常磐線・東京メトロ千代田線「綾瀬駅」西口から徒歩3分260m投稿日:2023年6月1日この口コミはTripadvisor LLCのものではなく、メンバー個人の主観的な意見です。 トリップアドバイザーでは、投稿された口コミの確認を行っています。 - junjun東京都心, 東京都26,400件の投稿足立区の魅力発信の第68回目は、足立区島根にある「島根鷲神社」についての情報を発信していきます。「島根鷲神社」を訪れたのは、2023年5月11日です。最初に「島根鷲神社」へのアクセスからスタートします。「島根鷲神社」へのアクセスは、まず改札を出て左に行き、東口階段を降ります。右手にイオンがあります。その横断歩道を渡り、左に曲って道なりに進むと正面に環七があります。環七を右折し、700mほど道なりに進むと「城北信用金庫梅島支店」があり、その前に信号(表示名「島根」)があります。横断歩道を渡り、さらに700mほど道なりに進むと歩道左手に「草加せんべいあられ岩瀬」があり、参道を示す石造りの道標があります。その角を左折し50mほど直進すると、右手に「島根鷲神社」があります。
「鷲神社」の歴史を紐解いてみると、「鷲神社」は、社伝によると入江の中で島の根のように出た景勝地でした。この辺りは、諸神が船で上陸した場所とされ、「日本武尊」が神々を尊び祀ったと伝えられています。このことから「日本武尊」を称え「大鷲尊」、「浮島明神」と称されました。文保2年(1318年)に、旧島根村の鎮守として中興され、「大鷲神社」と称されました。そして、元禄8年(1695年)に村内に点在していた七祠のうち、「八幡社」(誉田別命)と「明神社」(国常立命)の二柱が合祀されました。
「鷲神社」の鳥居を潜ると、左手に「手水舎」があります。「手水舎」の先には、に昭和31年(1956年)9月の造営された「神明造」の立派な社殿があります。また、「社殿」に向かって右側に境内社である「三峰神社」があります。「三峰神社」の「明神型鳥居」は享和2年(1802年)に建立され、現在は、「足立区登録有形民俗文化財」となっています。さらに右手に進むと江戸幕府8代将軍「徳川吉宗」が鷹狩に御成りになり、座られたという「将軍石」があります。そのすぐ先には、区内最古の学問所である「吉田順庵先生の島根学問所跡」があります。足立区域で確認された初めての「寺子屋」として有名です。そのままされに進むと石碑がありますが、由緒らしきものはなかったので、よく分かりませんでした。「本殿」の裏側を通り抜けると「富士塚」である「島根富士」があります。「浅間神社」の社号は掲げられていませんでしたが、「小御嶽神社」(磐長媛命)、「奥宮」(木花開耶媛命)がそれぞれ小石祠にて祀られていました。9月に行われる例大祭では、大神輿、山車が繰り出し、屋台での「島根ばやし」の音色高らかに、大勢の人で賑わうそうです。一度訪れる価値がありそうですね。
01_【「島根鷲神社」の一口メモ】
⑴ 住所:〒121-0815 東京都足立区島根4丁目25 電話:03-3883-6140
⑵ 「島根鷲神社」の概要
①御祭神…日本武尊 ②相殿神…誉田別命・国常立命 ③奉斎神…須佐之男命・天照大御神
⑶ 定休日:
02_【アクセス】
1 電車を利用して「島根鷲神社」へ
東武スカイツリー線「西新井駅」東口出口から徒歩19分1500m
03_【「島根鷲神社」の見どころ】
⑴ 「社殿」
「鳥居」をくぐるとまっすぐ向こうに昭和31年(1956年)9月の造営された「神明造」の立派な社殿があります。「社殿」は「拝殿」・「幣殿」・「本殿」で構成された神明造をベースとする権現造となっています。
⑵ 「三峰神社」
「社殿」に向かって右側に境内社である「三峰神社」があります。「三峰神社」は、「覆殿」となっていて、国魂大神、島宮天満宮、熊野大神も祀られています。「明神型鳥居」は享和2年(1802年)に建立され、現在は、「足立区登録有形民俗文化財」となっています。
⑶ 「将軍石」
江戸幕府8代将軍「徳川吉宗」が鷹狩に御成りになり、座られたという「将軍石」です。
⑷ 「富士塚」
「本殿」左奥に「富士塚」である「島根富士」があります。富士講が盛んの頃、島根の若者たちは「十三夜行」として島根富士講から出発し、村ではその帰着に合わせて牛車に万燈を仕立て、「島根ばやし」のお囃子入りで村中の人が出迎えたということです。「浅間神社」の社号は掲げられていませんでしたが、「小御嶽神社」(磐長媛命)、「奥宮」(木花開耶媛命)がそれぞれ小石祠にて祀られています。
⑸ 「吉田順庵の島根学問所跡」
「本殿」東(右手)には区内最古の学問所である「吉田順庵先生の島根学問所跡」があります。足立区域で確認された初めての「寺子屋」として有名です。足立区域で「寺子屋」が初めて確認されたのは、享保年間にまで時代を遡ります。島根村(現・足立区島根)の村医である「吉田順庵」が自宅に子どもたちを集め、手習いを教えたのがその始まりです。また、享保6年(1716年)10月28日に、鷹狩りの途中、八代将軍「徳川吉宗」が学問所に立ち寄った際にその行為に感銘を受け、翌日褒美として白銀10枚を与えられたと伝えられています。投稿日:2023年5月11日この口コミはTripadvisor LLCのものではなく、メンバー個人の主観的な意見です。 トリップアドバイザーでは、投稿された口コミの確認を行っています。 - junjun東京都心, 東京都26,400件の投稿足立区西新井大師にある「四国八十八箇所お砂踏み霊場」についての情報を発信していきます。「四国八十八箇所お砂踏み霊場」へのアクセスからスタートします。東武大師線「大師前駅」へ行くには、東武スカイツリーライン「西新井駅」で乗り換えます。「西新井駅」は急行が停車しますので便利です。北千住方面、草加方面から来ても中間の車両に乗れば階段があります。階段を上がると改札口がありますが、この改札口は出口専用ですのでここから出ないようにしてください。その奥に「大師前駅」へ行く改札があります。パスモ等交通系カードがあればそこをタッチして通り抜けます。それ以外は切符を購入しなければなりません。「大師前駅」へ行く券売機は改札手前の左側にあります。電車は10分間隔で出ていますので待ち時間のストレスは溜まりません。二両編成のかわいらしい列車に乗り、揺られること一駅、約2分乗れば「大師前駅」に到着します。「大師前駅」は無人駅なので「「大師前駅」には切符の券売機や精算機、自動改札機がなく、乗車券の購入や清算はすべて起点駅の「西新井駅」で行います。「大師前駅」から「西新井大師」へは、西新井大師参道経由して行く方法と裏道から行く二つの選択肢があります。裏道は「ボタン園」がすぐですが、その時期以外はお薦めできません。やはりせっかく来たのだから「西新井大師参道」の昔ながらの店舗を楽しみながら「西新井大師の山門」から入るのがベストのお薦めルートですね。まず、階段を降り直進し駅から出ます。出口は二つありますが、左へ行くとバス乗り場になっています。出口を出て直進すると環七に出ます。220mほど進み、次に一つ目の信号(表示名:「西新井大師参道」)があるのでそれを右折します。目の前に「西新井大師参道の門」、「西新井大師の山門」その奥に「西新井大師」が見えてきます。後は道なりに「西新井大師参道」の昔ながらの店舗を楽しみながら直進するだけです。「西新井大師参道の門」があります。そこを右折すると「西新井大師の山門」その奥に「西新井大師」が見えてきます。
「四国八十八箇所お砂踏み霊場」は、「本堂」左手、「加持水の井戸」の奥にあります。「四国八十八箇所お砂踏み霊場」は一周することで、四国巡礼の旅を実際に体験できます。お大師さまのご利益と観音慈悲の功徳を受けられるということです。「四国八十八箇所巡り」の霊場と高野山の砂が敷き詰められています。ちなみに、お砂ふみとは、霊場寺院の「お砂」をそれぞれ集め、その「お砂」を寺院の境内と考えて「お砂」を踏みながらお参りすることです。そのご利益は、実際に霊場巡りをしたことと同じであるといわれております。前回訪れたときもそうでしたが、当日も年配のご夫婦が「四国八十八箇所お砂踏み霊場」を回っていました。
01_【「西新井大師」の一口メモ】
①正式名称…五智山遍照院總持寺」(ごちさんへんじょういんそうじじ)
②本尊…十一面観世音菩薩弘法大師 ③ご利益厄除…開運、方位除け、所願成就
④開創…天長3年(西暦826年) ⑤開基…空海(弘法大師) ⑥宗派…真言宗豊山派
⑦総本山…長谷寺(奈良県桜井市)⇒総本山とは…一宗・一派を管轄する寺
⑧大本山…護国寺(東京都文京区)⇒大本山とは…総本山の下にあって所属の末寺を統括する寺
⑨札所…ア関東八十八ヶ所霊場特別霊場 イ関東36不動霊場26番札所 ウ東国花の寺百ヶ寺東京1番
⑩所在地…〒123-0841 東京都足立区西新井1-15-1投稿日:2023年2月16日この口コミはTripadvisor LLCのものではなく、メンバー個人の主観的な意見です。 トリップアドバイザーでは、投稿された口コミの確認を行っています。 - junjun東京都心, 東京都26,400件の投稿足立区の魅力発信の第42回目は、足立区伊興本町にある「東岳寺」についての情報を発信していきます。「東岳寺」へのアクセスからスタートします。「東岳寺」へは、近道もありますが、碁盤の目の道路ではないので迷うといけませんから分かりやすい道順で説明します。「竹ノ塚駅」の改札口を出て左へ進むと「西口」です。さらに左方向に進むと信号があり「赤山街道」になります。横断歩道を渡り、右方向へ進みます。道なりにmほど直進すると「東岳寺」が左手にあります。
「東岳寺」はとっても小さなお寺なので見るのに要する時間は約10分です。山門を入って左手に「東海道五十三次」で有名な浮世絵師「初代安藤広重」の墓と記念碑があります。墓石は関東大震災と戦災のため一度破壊されましたが、昭和33年(1958年)の「広重100回忌」に際し再建されました。記念碑は大正13年(1924年)に建立されたものです。記念碑の左手には広重を海外に紹介したアメリカ人「ジョン・S・ハッパー」の墓があり、その近くには「俳風柳多留」を出版した「花屋久次郎」の遺蹟碑があります。特に、「東岳寺」の庭園は、都会の喧騒を忘れ、心が和む場所です。庭園の奥には「四阿」があり、腰を掛けて休むこともできます。そこからは、庭園の中にある「弁天堂」や池の鯉も眺めることができます。「東岳寺」の歴史を紐解いてみると、「東岳寺」は、寛永10年(1633年)に下野国(栃木県)「大中寺」「の門解蘆關」和尚により、浅草新寺町(現在の「台東区松が谷一丁目」)に創建されました。その後、戦災にあい、昭和36年(1961年)に現在地に移転しました。
01_【「東岳寺」の一口メモ】
⑴ 住所…〒121-0807 東京都足立区伊興本町1丁目5−16 電話:03-3899-3790
⑵ 「東岳寺」の概要 ① 山号…南昌山 ② 寺号…東岳寺 ③ 宗派…曹洞宗系単立
⑶ 「東岳寺」所蔵の文化財…初代安藤広重墓及び記念碑(東京都指定文化財)
⑷ ご本尊…釈迦牟尼仏
02_【アクセス】
1 電車を利用して「東岳寺」へ
東武スカイツリー線「竹ノ塚駅」西口出口より徒歩6分500m
2 バスを利用して「東岳寺」へ
⑴ [竹ノ塚駅西口] ⇒[草加駅西口行]≪東武バス:竹04・草加23≫
・バス乗り場:「竹ノ塚駅西口」(2番のりば)
・1停留所目(「竹ノ塚駅西口」の次の停留所) 所要時間約1分
・9時から17時の間に1時間平均1~2便
・「待木医院前」で下車し「東岳寺」の前に停車1分33m
⇒バスは「待木医院前」停留所に停まるので下車した後、バスの進行方向と同じ方向に33mほど進むと左側に「東岳寺」の山門があります。
⑵ [竹ノ塚駅西口] (竹の塚車庫行)≪東武バス:竹09≫
・バス乗り場:「竹ノ塚駅西口」(2番のりば)
・1停留所目(「竹ノ塚駅西口」の次の停留所) 所要時間約1分
・11時から17時の間に1時間平均1~2便
・「待木医院前」で下車し「東岳寺」の前に停車1分33m
⇒バスは「待木医院前」停留所に停まるので下車した後、バスの進行方向と同じ方向に33mほど進むと左側に「東岳寺」の山門があります。
03_【「東岳寺」の見どころ】
⑴ 「歌川広重」の墓と記念碑
「歌川広重」の墓と記念碑は、「東岳寺」の山門入って左手の奥にあります。「歌川広重」の「墓所」は、関東大震災と戦災のため一度破壊されましたが、昭和33年(1958年)の「広重百回忌」に修復・再建されました。「記念碑」は、大正13年(1924年)に建立されたものですが、昭和52年(1977年)に現在地に移築され、再整備されています。「歌川広重」(1797年〜1858年)は、江戸時代後期の浮世絵師で、八重洲河岸定火消組同心の子として生まれ、文化8年(1811年)の15歳のとき「歌川豊広」に入門し浮世絵を学び、「歌川」の画姓と「広重」の号を許されました。それまで業界の常識だった浮世絵の画風に、「洋画の遠近法」の技術を取り入れて、風景画、花鳥画で才能を発揮した後、天保年間に有名な作品「東海道五十三次」で一躍名声を博しました。なお、現在では「安藤広重」ではなく、「歌川広重」という呼称が一般的です。昭和15年(1940年)に東京都の旧跡に指定されました。
⑵ 「米国人ハッパーの墓」
「米国人ハッパーの墓」は、「歌川広重」の墓と記念碑の左手に隣同士であります。
米国人「ハッパー」(1863年〜1936年)は、彼は人生の半分以上となる46年もの間、日本に住みながら日本文化と彼が憧れ続けた「歌川広重」の作品を研究し、世界中にその素晴らしさを広めたそうです。「歌川広重」の作品を愛するあまり、自分のことを「廣重(広重)ハッパー」と名乗っていたそうです。「ハッパー」は、昭和11年(1936年)12月19日に、享年72歳で亡くなりました。その後、日本文化を世界に広めた功績が認められて、「歌川広重」と同じ「東岳寺」内に墓が建立されました。
⑶ 「花屋久次郎の遺跡」
「米国人ハッパーの墓」の左側には川柳で有名な「花屋久次郎」の遺跡があります。昭和30年(1955年)に建立されました。「東岳寺」では、昭和57年(1982年)から毎年2月11日に、1年に1回の「花久忌」という川柳の会が開催されます。
⑷ 「香月弘為の追悼歌碑」
庭園内に「香月弘為」(弘美)の碑があります。本名は「小笠原弘恵」で、宝塚歌劇団月組の元タカラジェンヌとして活躍しました。残念ながら21歳という若さで舞台で不幸な事故に遭いこの世を去りました。「香月弘美」(小笠原弘恵)のお墓は、庭園とは別の「東岳」寺の墓地にあります。墓地へは、お堂の階段をくぐって行くことができます。入って七列目の右側手前にある「小笠原家」の三つの墓石の下に、「香月弘美」は眠っています。
⑸ 「柳原白蓮の追悼歌」
歌碑には、歌人「柳原白蓮」(1936年-1958年)の「めになみだ こよいは月のなきものを 香ふさくらが うすあかりせり」という追悼歌が刻まれていました。投稿日:2023年3月21日この口コミはTripadvisor LLCのものではなく、メンバー個人の主観的な意見です。 トリップアドバイザーでは、投稿された口コミの確認を行っています。 - Yuzukoh我孫子市, 千葉県7,202件の投稿日暮里・舎人ライナーの終点「見沼代親水公園駅」から歩いてすぐのところにあります。ちょうどお祭り?イベントをやっていて地元の方々で賑わっていました。投稿日:2019年5月29日この口コミはTripadvisor LLCのものではなく、メンバー個人の主観的な意見です。 トリップアドバイザーでは、投稿された口コミの確認を行っています。
- junjun東京都心, 東京都26,400件の投稿足立区の魅力発信の第152回目は、足立区千住にある「長円寺」についての情報を発信していきます。「長円寺」を訪れたのは、2023年7月20日です。最初に「長円寺」へのアクセスからスタートします。「長円寺」へのアクセスは、JR常磐線、東武スカイツリー線、つくばエックスプレス線、東京メトロ日比谷線・千代田線」「北千住駅」西口から徒歩になります。西口を出ると右手に「北千住マルイ」があり、2Fは「北千住駅」と「北千住マルイ」を結ぶ「北千住駅前広場」になっています。一番奥まで進むと階段とエスカレーターがありますが、階段を利用し、進行方向に370mほど道なりに進むと右手に「長円寺」の山門があります。
「長円寺」は、新義真言宗の寺院です。「長円寺」は、出羽湯殿山の行者「雲海」が江戸時代初期の寛永4年(1627年)の現在の地に庵を結び、後に「賢俊」が開山したといわれています。御本尊は、雲海が持っていた薬師如来像が本尊である。「定朝」の作といわれ、秘仏となっています。「長円寺」の境内には、「魚籃観音堂」があり、「魚籃観音」が安置されています。その他にも「子育て地蔵」や「目やみ地蔵」があり、江戸時代には女性の参詣が多いことで知られていました。「長円寺」は、「荒川辺八十八ヶ所霊場47番札所」、「荒綾八十八ヶ所霊場62番札所」です。
01_【「長円寺」の一口メモ】
⑴ 住所…〒120-0034 東京都足立区千住4丁目27−5 電話:03--
⑵ 「長円寺」の概要
①山号…月松山 ②院号…照光院 ③寺号…長円寺 ④本尊…薬師如来 ⑤宗派…新義真言宗
02_【アクセス】
1 電車を利用して「長円寺」へ
JR常磐線、東武スカイツリー線、つくばエックスプレス線、東京メトロ日比谷線・千代田線」「北千住駅」西口から徒歩6分 500m投稿日:2023年7月28日この口コミはTripadvisor LLCのものではなく、メンバー個人の主観的な意見です。 トリップアドバイザーでは、投稿された口コミの確認を行っています。 - junjun東京都心, 東京都26,400件の投稿足立区の魅力発信の第78回目は、足立区★にある「易行院」についての情報を発信していきます。「易行院」を訪れたのは、2023年5月16日です。最初に「易行院」へのアクセスからスタートします。
「易行院」へは、近道もありますが、「竹ノ塚駅」周辺は碁盤の目の道路ではないので迷うといけませんから分かりやすい道順で説明します。「竹ノ塚駅」の改札口を出て左へ進むと「西口」です。「西口」を出てさらに左方向に進むと信号があり「赤山街道」になります。横断歩道を渡らずに、右折し230mほど進むと「赤山街道」と「尾久橋通り」が交差する信号があります。その横断歩道を渡り右折し650mほど直進すると「東武バス足立営業所」(車庫)の先に四つ目の信号があります。その横断歩道を渡り最初の角を左折し、300mほど直進すると「易行院」の「山門」が左手にあります。
「易行院」は、浄土宗の寺院です。その歴史を紐解いてみると、「易行院」は、「念誉上人易道和」が文亀2年(1502年)に、浅草に創建しました。明暦年間(1655-1658年)に浅草山谷町(現台東区清川1-9)へ移転しました。昭和初年当地へ移転したといいます。「易行院」の見どころは、足立区文化財である「助六の塚」と「易行院」が実家である「円楽師匠の墓」です。見どころは下記に取りまとめてあるのでご覧いただければ幸いです。ちなみに、関東大震災後に都心及び各地より、14の寺院が伊興に移転してきました。13の寺院(「長安寺」、「善久寺」、「浄光寺」、「法受寺」、「栄寿院」、「正楽寺」、「専念寺」、「正安寺」、「東陽寺」、「本行寺」、「常福寺」、「易行院」、「蓮念寺」)は、東伊興四丁目(古くは伊興狭間)の一地域に移転し寺町を形成しています。少し離れた伊興本町一丁目に歌川広重で有名な「東岳寺」もあります。伊興本町二丁目にある伊興最古のお寺「応現寺」を含めてお参りできます。そして、「伊興寺町」(足立区)のほか、「烏山寺町」(世田谷区)、「高円寺南寺町」(杉並区)、「上高田寺町」(中野区)、「十一ヶ寺寺町」(練馬区)、「吉祥寺寺町」(武蔵野市)などが形成されています。
01_【「易行院」の一口メモ】
⑴ 住所…121-0801 東京都足立区東伊興4丁目5−5 電話:03-3899-1328
⑵ 「易行院」の概要 ①山号…日照山 ②院号…易行院 ③寺号…不退寺 ④宗派…浄土宗
⑶ 御本尊…阿弥陀如来
02_【アクセス】
1 電車を利用して「易行院」へ
東武スカイツリー線「竹ノ塚駅」西口出口から徒歩15分1200m(分かりやすい道順:徒歩16分1300m)
03_【「易行院」の見どころ】
⑴ 「助六の塚」(足立区文化財)
「易行院」の正面入口に「助六地蔵」と「花川戸助六」とその恋人の「揚巻」の墓があります。墓石を削り取る者が絶えず、「助六の墓」だけ欠けています。「易行院」の過去帳によると、7代目「市川団十郎」は、承応2年(1653年)に死んだとされる「助六」の160年忌法要を文化9年(1812年)に「易行院」で営んでおり、「助六の墓」の裏面には「成田屋」の屋号が刻まれています。「易行院」は、「助六寺」と呼ばれ、助六と揚巻の仲が良かったことから、お参りすると夫婦円満、結婚成就にとてもご利益があるといわれています。
⑵ 「円楽師匠の墓」
故5代目「三遊亭圓楽」師匠のご実家で、お墓があります。円楽師匠の墓の隣には、妹「古河信子」を偲んだ観音像が安置されています。客室乗務員だった妹の「古河信子」は、昭和47年(1972年)6月14日に日航ニューデリー墜落事故で亡くなっています。投稿日:2023年5月16日この口コミはTripadvisor LLCのものではなく、メンバー個人の主観的な意見です。 トリップアドバイザーでは、投稿された口コミの確認を行っています。 - junjun東京都心, 東京都26,400件の投稿足立区の魅力発信の第179回目は、足立区千住緑町にある「櫻神社」についての情報を発信していきます。「櫻神社」を訪れたのは、2023年8月10日です。最初に「櫻神社」へのアクセスからスタートします。「櫻神社」へのアクセスは、京成本線線「千住大橋駅」の改札口を出て右に曲がると駅のロータリーがすぐあります。ロータリー沿いを右に進むと、前方に商業施設の「ポンテポルタ千住」があります。横断歩道があるので、その横断歩道を渡り、最初の信号で右折します。290mほど直進すると「足立区立千住大橋さくら公園」があり、「櫻神社」はその先にあります。
「櫻神社」は、足立区千住緑町にある神社です。由緒板等の詳しい説明がないので、残念ながら詳細については分かりませんが、春の桜の時期になると商業施設「ポンテポルタ」横の「さくら公園」と「ニッピ」の間にある小さな神社「櫻神社」のソメイヨシノの美しさは格別だそうです。「櫻神社」の桜とうしろを走る京成のスカイライナーの走る姿をカメラに収められる絶好のスポットだそうです。そして、石の鳥居と木の鳥居の白と赤のハーモニーがとてもきれいでした。
01_【「櫻神社」の一口メモ】
⑴ 住所…〒120-0044 東京都足立区千住緑町1丁目1−1
02_【アクセス】
1 電車を利用して「橋戸稲荷神社」へ
京成本線線「千住大橋駅」南口から徒歩4分350m
2 バスを利用して「橋戸稲荷神社」へ
★[北千住駅西口] ⇒[北千住駅西側地域循環]≪(株)新日本観光自動車バス:は5号≫
・バス乗り場:「北千住駅西口」(11番のりば)
・7停留所目(「足立市場入口」の次の停留所) 所要時間約10分
・9時から17時の間に1時間平均1~3便
・「千住大橋」で下車し「橋戸稲荷神社」入口まで徒歩5分400m
⇒バスは「千住大橋」停留所に停まるので下車した後、バスの進行方向と反対方向に駅のロータリー沿いに30mほど進むと前方に商業施設の「ポンテポルタ千住」が見えます横断歩道があるので、その横断歩道を渡り、最初の信号で右折します。290mほど直進すると「足立区立千住大橋さくら公園」があり、「櫻神社」はその先にあります。投稿日:2023年8月17日この口コミはTripadvisor LLCのものではなく、メンバー個人の主観的な意見です。 トリップアドバイザーでは、投稿された口コミの確認を行っています。