文京区の神社/寺院/教会/モニュメントなど

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162件の検索結果:旅行者のおすすめ順
  • 口コミ、評価、ページ閲覧数、そしてユーザーの位置情報など、トリップアドバイザーのデータに基づいてランク付けされたアクティビティ。


162件中130件の結果を表示中

旅行者の口コミ

  • けぴ
    横浜2,282件の投稿
    バブル評価 5 段階中 5.0
    椿山荘のすぐ近くにあります。新宿から公共交通機関で行くなら都バスが便利。建物は50年ほど前に作られたとは思えない近未来的。三角形の館内の天井は荘厳でパイプオルガンの音色が抜群。ユーミンの翳りゆく部屋のレコーディングが行われたのもここらしい。
    投稿日:2024年4月7日
    この口コミはTripadvisor LLCのものではなく、メンバー個人の主観的な意見です。 トリップアドバイザーでは、投稿された口コミの確認を行っています。
  • OnAir803420
    東京都心, 東京都28,877件の投稿
    バブル評価 5 段階中 4.0
    《第67回梅まつり(2月8日~3月8日)》が始まり 2月9日訪問しました。【湯島天満宮】のホームページに 2~3分咲きと掲載されていましたが 想定以上に咲いており それなりに楽しめました(添付 写真参照)。又 《梅》の木に《メジロ》や《ヒヨドリ》が 梅の蜜を楽しんでいる姿を楽しめ 見ているだけでホッコリしましたので 境内の《梅》をじっくり眺められること お薦めします。更に 週末 種々イベントが開催されているようなので 週末に訪問機会あれば ホームページでイベント予定をチエックされては如何でしょうか。
    投稿日:2024年2月9日
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  • junjun
    東京都心, 東京都26,400件の投稿
    バブル評価 5 段階中 4.0
    文京区大塚にある「護国寺」についての情報を発信していきます。「護国寺」を訪れたのは2023年●月●日です。
    まず、最初に「護国寺」の歴史について紐解いていきたいと思います。「護国寺」は、天和元年2月(1681年)に、五代将軍「徳川綱吉」が、その生母、「桂昌院」の発願により創建しました。そして、開山にあたっては、「碓氷八幡宮」(現在の「上野國一社八幡宮」)の別当である「大聖護国寺」(現在の「高崎市」にある)の新義真言宗の僧である「亮賢」を招いています。「護国寺」の御本尊は、「桂昌院」念持仏の「天然琥珀如意輪観世音菩薩像」で、号を「神齢山悉地院護国寺」と称し、正式名は「神齢山悉地院大聖護国寺」です。明治16年(1881年)、大正15年(1926年)と火災で堂宇の多くを失っていますが、「仁王門」、大名屋敷の表門のスタイルである「惣門」は創建当時のものが現存しています。そして、「中門」と多くの堂宇が保存あるいは再建されています。また、元禄文化の粋を集めた書画・什器の他、国宝、重要文化財等の数多くが寺宝とされています。特に、寺宝としては、「絹本著色尊勝曼荼羅図」、「金銅五鈷鈴」が有名です。元禄10年(1697年)に建立の「本堂」、「月光殿」は国の重要文化財に指定されています。「護国寺」の境内には、多数の石碑や像があります。特に、江戸時代に全盛だった富士山信仰の「富士講」を今に伝える富士塚である「音羽富士」が有名です。「音羽富士」には、1合目から10合目までの石碑が配置されています。その他、「江差追分」の研究を続けた新潟県出身の民謡家「青木好月」を顕彰して建立された「民謡碑」、「私立獣医学校発祥之地」、「義海和尚咸恩」などがあります。それともう一つ注目すべきは、「筑波権現」(現在の「筑波山神社」)の別当寺である「護持院」が明治の神仏分離・廃仏毀釈の荒波で廃寺となる際に移された「護国寺大仏」(毘盧遮那仏)です。隣接する墓地には、政治家の「大隈重信」、「山縣有朋」、実業家の「大倉喜八郎」、作曲家の「團伊玖磨」、建築家の「ジョサイア・コンドル」、漫画家の「梶原一騎」、空手の「大山倍達」などの墓所があります。震災、戦災と二度の大災害に襲われた東京の都心にありながら、江戸の面影を今に伝え、まるでタイムスリップしたような錯覚にとらわれます。

    01_【一口メモ】
    ⑴ 所在地…〒112-0012 東京都文京区大塚5-40-1
    ⑵ 拝観時間…9:00~16:00(12:00~13:00閉堂)

    02_【アクセス】
    ⑴ 電車を利用する場合
    東京メトロ有楽町線「護国寺駅」3番出口から徒歩1分55m
    ⑵ バスを利用する場合
     [池袋駅東口] ⇒[東京ドームシティ]≪都営バス:都02乙≫
    ・バス乗り場:「池袋駅東口」: 5番のりば
    ・4停留所目(護国寺前)」の次の停留所) 所要時間約6分 
    ・9時から17時の間に1時間平均2~3便 
    ・「護国寺前」下車で下車し「護国寺」仁王門まで徒歩1分110m

    03_①【「護国寺」の見どころ_境内の建造物】
    ⑴ 「仁王門」
    「護国寺」の参拝は、「仁王門」から始まります。「仁王門」は、昭和57年(1982年)11月1日「文京区指定有形文化財」(建造物)に指定されました。「仁王門」の建築様式は、「八脚門」、「切妻造りで丹塗」で、元禄期造堂の「本堂」、「薬師堂」や「大師堂」などから成る徳川将軍の祈願寺としての伽藍の中で、重要な表門です。建立の年代については、元禄10年(1697年)に造営の「観音堂」(本堂)よりやや時代が後と考えられ、正面(南側)の両脇に「金剛力士像」が安置されています。右側は「阿形像」、左側は「吽形像」、そして、背面(北側)の両脇には「二天像」が安置されています。右側は「増長天」、左側は「広目天」)の仏法を守る仏像が安置されています。「仁王門」の前にある両脇の提灯には「九つ目紋」が施され、夏目漱石の小説「夢十夜」の第六夜で「運慶」が「護国寺」の「山門」で仁王を刻んでいる夢を見た作品の舞台でもあります。
    ⑵ 「観音堂」(本堂)
    「仁王門」を潜り、さらに境内を進み、長い階段を上がって不老門を潜ると、目の前がぱっと開けて、正面には都内最大の木造建造物「護国寺観音堂」(本堂)が目の前に姿を現します。「観音堂」は、元禄10年(1697年)の正月に、「観音堂」新営の幕命があり、建設が始まり、その後わずか半年ほどで完成されました。「観音堂」の最大の魅力は、禄時代の建築工芸の粋を結集した大建造物で、その雄大さは都内最大の木造建造物と言われています。しかも震災・戦災と二度の大災害にも襲われながら姿も変えていません。元禄時代の建造物が都内に建っていることは珍しく、とても貴重な建築工芸といえるでしょう。そして、「観音堂」には、「本尊 如意輪観世音菩薩」が安置誰ています。「本尊 如意輪観世音菩薩」は、天和2年(1682年)に「護国寺」本堂が完成したさいに、「桂昌院」の念持仏である唐物天然琥珀の「如意輪観世音菩薩」が安置されましたが、その後秘仏となり「奥の院」に安置されています。現在安置されているのが、「堀田正虎」の母である「栄隆院尼」が寄進された木造の「六臂如意輪観世音菩薩像」です。この「六臂如意輪観世音菩薩像」は、平安時代後期頃の作と見られています。片膝を立てて座る六臂の坐像で、通常の如意輪よりもうつむき加減の思惟の表情が特徴的です。まばゆいばかりの冠と装飾にも圧倒されます。ちなみに、この像で示される六本の手によって、「地獄」、「餓鬼」、「畜生」、「修羅」、「人」、「天」の六つの世界をそれぞれ救うことを表しています。名前の由来は、その姿にあり、一つの右手には、意のままに様々な願いをかなえる宝の珠である「如意宝珠」を持ち、そして一つの左手には車輪が回り続ける様に、仏教の教えが尽きる事無く世界に巡ることを現わす「輪」宝を持つ、この「如意宝珠」と「輪宝」とを持ち合わせているのが「如意輪観世音菩薩」と称されます。また、右膝を立てて左の足の上に乗せ、一つの右手を頬に当て首を傾けて思惟相を示し、どのようにして苦しんでいる衆生を救おうかと思い巡らすことを表しています。なお、「如意輪観音」は正月1日~5日、節分(2月3日)、四万六千日(7月9,10日)および毎月18日に開帳されています。
    ⑶ 「月光殿」
    「不老門」を潜ると左手に「月光殿」があります。「月光殿」は、重要文化財の本堂よりも古く、桃山時代の華麗な書院造りを今に伝えている貴重な建物です。「月光殿」は、大津市の「三井寺」の塔頭「日光院」の客殿を昭和3年(1928年)に現在の場所に移築しましたもので、昭和6年(1931)年に国の重要文化財に指定されました。「三井寺」では、小院・日光院として、寺の儀式などに使われ、公家用宮殿としても使用されていたと言われています。また、「月光殿」は、大勢が一同に会する茶会の会場として使われています。「月光殿」の「大書院」は表座敷、裏座敷とその他の畳の間をあわせて、80畳におよぶ畳敷の大広間です。正面には違い棚と大床を備え、大床には「狩野永徳」による壁画、蘭亭図が残されています。昔はこれが大書院の壁面一面に描かれていたそうです。しかし、こんな大きな建物を移築できたと感心します。
    ⑷ 「不老門」
    「仁王門」を潜ると次が「不老門」です。「不老門」は、「本堂」と「仁王門」の中間地点にあります。「不老門」は、昭和13年(1938)年4月に建立され、鎮護国家世界平和を祈願して「三尾邦三」より寄進されました。建築様式は京都の「鞍馬寺」(由岐神社割拝殿)の門を基本に設計されました。また額面「不老」の二字は「徳川家達」の筆によるものだそうです。
    ⑸ 「大師堂」
    「大師堂」は、元禄14年(1701)年に再営された「旧薬師堂」を、大正15年以降に大修理し現在の位置に移築して「大師堂」にしたものです。装飾も少なく全体的に荘重、すっきりとした印象をつくっています。真言宗伽藍における「大師堂」の格式の高さと、中世的な伝統を重んじた貴重な建造物です。「大師堂」は、昭和50年(1975年)11月1日に文京区の「指定有形文化財」に指定されました。
    ⑹ 「多宝塔」
    「多宝塔」は、昭和13年(1938年)4月に建立されました。純和様の大型塔で、」モデルとなったのは、「石山寺」の「多宝塔」(国宝)です。本尊は、「團芳子」が寄贈した「大日如来像」を安置して、彫刻者は「長谷川栄作」です。また。内部円柱の仙画金銀五彩の紋様は、「田中親美」が設計監督により完成しました。忠魂碑や表忠碑など戦没者の慰霊碑のなかで、納骨されているものだけが「忠霊塔」と呼ばれます。そんなことから、この「多宝塔」が日本の最初の「忠霊塔」と言われています。「多宝塔」は平成8年(1996年)に大修理が施され、「忠霊堂」の側から音羽陸軍埋葬地に移築されました。
    ⑺ 「霊廟」
    「霊廟」は、「観音堂」の裏に霊廟があり、平成8年(1996年) 9月完成し、同年10月に「霊廟落慶」が行われました。その時に合わせて日本芸術院会員である彫塑家「雨宮敬子」作による開眼法要が厳かに執り行われました。建物は、地下3Fで1,672基の「納骨室」と遺骨を合祀する「納骨所」も完備しています。
    ⑻ 「惣門」
    「護国寺」の入口は、「仁王門」のほかにもあります。それが「惣門」です。「惣門」は、本坊に通ずる所にあり、建築様式は社寺系のものでなく、大名屋敷の表門の形式で、柱や冠木なども太く、全体にどっしりした構えです。これは、祈願寺である「護国寺」を五代将軍「徳川綱吉」が1000人以上の供揃えで参詣したからと伝えています。「惣門」を潜ると葬祭場の「桂唱殿」があります。「惣門」は、江戸中期の18世紀前期頃に建立されました。「惣門」は、明治維新までは、護国寺の隣にあった護持院(後述)の門だった。将軍になったつもりで、「惣門」を潜りましたが、門の途中に「音羽幼稚園」があり可愛らしい声が聞こえてきました。「惣門」は、昭和51年(1976年)11月1日に文京区の指定有形文化財(建造物)に指定されました。余談ですが、「惣門」の隣に、閉ざされた門があります。これは、皇室専用の墓地「豊島岡墓地」です。
    ⑼ 「薬師堂」
    「薬師堂」は、「観音堂」(本堂)に向かって左手の奥にところにあります。「薬師堂」は、元禄4年(1691年)に建立されました。新たに建造したのではなく、「一切経堂」を現在の位置に移築し、「薬師堂」として使用したものです。一番の特徴は、柱間に「花頭窓」を据えているなど禅宗様建築の手法をとりいれていることで、小規模ながら元禄期の標準的な遺構として、価値ある建造物です。「薬師堂」は、昭和51年(1976年)11月1日に文京区の指定有形文化財(建造物)に指定されました。
    ⑽ 「忠霊堂」
    「忠霊堂」は日清戦争の戦没者の遺骨を埋葬するため明治35年(1902年)に建立されました。当初はその背後に「銅製多宝塔」が日本初の「忠霊塔」として置かれ、その拝殿として「忠霊堂」が造営されました。この建立には「護国寺」の第45世「高城義海大僧正」が尽力されたそうです。ちなみに、「忠魂碑」や「表忠碑」など戦没者の慰霊碑のなかで、納骨されているものだけが「忠霊塔」と呼ばれます。そんなことから、この「多宝塔」が日本の最初の「忠霊塔」と言われています。「多宝塔」は平成8年(1996年)に大修理が施され、「忠霊堂」の側から音羽陸軍埋葬地に移築されました。
    ⑾ 鐘楼
    「鐘楼」は、「不老門」を潜ると右手にあります。「鐘楼」は、江戸時代中期に建立され、建築様式は、伝統を重んじた格式の高い袴腰付重層入母屋造りになっています。袴腰の鐘楼ですが、袴腰部分は、現在は人造石洗出モルタル仕上げとなっています。都内では同種のほとんどが失われている中で貴重な文化財です。また「梵鐘」は、天和2年(1682年)に寄進されたものです。「鐘楼」は、昭和51年(1976年)11月1日に文京区の指定有形文化財(建造物)に指定されました。江戸中期の建立。袴腰の鐘楼だが、袴腰部分は、現在は人造石洗出モルタル仕上となっています。

    03_②【「護国寺」の見どころ_境内の石碑・史跡】
    ⑴ 「水屋」と「唐銅蓮葉形手洗水盤一対二基」
    「仁王門」をくぐり境内に入ると正面階段の左右に「水屋」が一対有ります。「生類あわれみの令」お犬様で有名な5代将軍「徳川綱吉」の母である「桂昌院様」が寄進した蓮の葉を模った水手鉢が納められていています。そこから一筋の水が流れ出ていてとても心が落ち着くような風情を醸し出しています。
    ⑵ 「からすの赤ちゃん」の碑
    「からすの赤ちゃん」の碑は、「仁王門」を潜ると正面の長い石段とその上に「不老門」が見えます。その石段の右手前の植栽に数基の石造物があり、その一つが「からすの赤ちゃん」の碑です。童謡「からすの赤ちゃん」を作詞・作曲したのは、「音羽ゆりかご会」の「海沼実」によるものです。「海沼実」は、音楽学校に在学中の昭和8年(1933年)に「音羽ゆりかご会」という合唱団を作り、子供たちを指導するようになりました。この「護国寺」は、合唱団の練習の場所であったことから、「音羽ゆりかご会」が、「海沼實」の3回忌と「音羽ゆりかご会創立40周年」を記念して造立したものです。
    ⑶ 民謡碑(青木好月の顕彰碑)
    「からすの赤ちゃん」の碑の左側にあるの「民謡碑」は、「江差追分」と「佐渡おけさ」を十八番とするアマチュアの民謡愛好家である「青木好月」の顕彰碑です。アマチュアの顕彰碑は余り見たことがないので珍しいものでしょう。この「民謡碑」は、「青木好月」を顕彰して、民謡碑建立委員会により昭和57年(1982年)に建立されました。「青木好月」は、昭和24年(1949年)に、「日本民謡協会」の発足に尽力して、全国組織へと発展させた人物です。
    ⑷ 「私立獣医学校発祥之地」
    「からすの赤ちゃん」碑の右手には、「音羽富士」の登り口があるが、その傍らに立つ「私立獣医学校発祥の地」碑は、「日本獣医生命科学大学」(旧日本獣医畜産大学)の創立130年記念碑があります。明治維新以降,明治政府は富国強兵政策のもと近代的な騎兵隊の創設に着手しました。明治4年 (1871年)に陸軍が創設されるとヨーロッパ種の馬が輸入されて軍馬の改良が行われ,同時に獣医師の育成が始まりました。日本最初の獣医養成機関として明治14年(1881年) に「私立獣医学校」が開設されました。陸軍の獣医師9名によってここ「護国寺」の境内で17名の生徒への教育が始まりました。
    ⑸ 「音羽富士塚」
    「音羽富士塚」は、江戸時代に全盛だった「富士講」(富士山信仰)を今に伝える富士塚です。「音羽富士塚」には、1合目から10号目まで石碑が配置されています。「音羽富士塚」は、文化14年(1817年)に「山護講」によって築かれた高さ6mほどの富士塚で「江戸八富士」のひとつに数えられています。明治18年に護国寺本堂の西側から、現在地に移設されました。都内に現存する富士塚としては、「高田富士」、「千駄ヶ谷富士」、「鉄砲洲富士」、「十条富士」に次いで古く歴史あるものです。山頂には「木之花咲耶姫」を祭神とする「浅間神社」が祀られています。ちなみに、「江戸八富士」とは、「高田富士」(甘泉園公園横)、「品川富士」(品川神社境内)、千駄ヶ谷富士(鳩森八幡神社境内)、下谷坂本富士(小野照崎神社境内)、江古田富士(茅原浅間神社境内)、「十条富士」(十条冨士神社境内)、「音羽富士」(護国寺境内)、「高松富士」(富士浅間神社境内)です。
    ⑹ 「義海和尚咸恩碑」
    「不老門」へと上がる石段の左手高方の中の植え込みに見えるのが、巨碑「義海和尚咸恩碑」です。「護国寺」住職から総本山長谷寺化主となった高僧の石碑だそうです。「義海和尚咸恩碑」は、「高城義海」大僧正への感恩碑として大正10年(1921年) 5月の建立に建立されました。
    ⑺ 「護国寺大仏」(毘盧遮那仏)
    「護国寺大仏」(毘盧遮那仏)は、「不老門」を潜るとすぐ右手に見えます。境内にある「護国寺大仏」(毘盧遮那仏)は、「筑波山大権現」(現在の「筑波山神社」)の別当「護持院」から移されたものです。明治維新後の神仏分離、廃仏毀釈の荒波で、筑波山の「護持院」は「筑波山神社」に変わり、江戸の「護持院」は、廃寺になりました。「護国」寺には、「筑波山」の「護持院」から、「銅製宝塔」、「銅像大仏」、「銅製金剛力士」、「銅像地蔵菩薩立像」などが運ばれて、廃仏の難を逃れていますが、「護国寺大仏」(毘盧遮那仏)も霞ヶ浦に捨てられたものを「護国寺」に移したものだそうです。何とももの悲しい歴史を背負っている大仏様ですね。
    投稿日:2023年3月23日
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  • hal
    品川区, 東京都1,967件の投稿
    バブル評価 5 段階中 4.0
    根津神社の境内の中にあります。鳥居が並んでて映えるスポットです。手前に池があり、最後の狐はたくさんいました。
    投稿日:2024年2月12日
    この口コミはTripadvisor LLCのものではなく、メンバー個人の主観的な意見です。 トリップアドバイザーでは、投稿された口コミの確認を行っています。
  • Yasu K
    東京都心, 東京都1,733件の投稿
    バブル評価 5 段階中 4.0
    Googleで事前に駐車場を下調べして、カーナビ頼りに鳥居の前まで辿り着いたのですが、車の入り口がよく分からず断念。近くのコインパーキングを探して停めました。商店街の方から住宅街の階段を登って駐車場から入りましたが、後から鳥居を見ると向かって右側に細い車用のコンクリートの道があるではないですか。分かりにくい。3時間900円の設定も無理やり感凄いですし、現金しか使えないのも今の時代どうかと。。神社自体は小ぢんまりとして閑静な印象で良かったですが、やはりあの駐車場は良い気を壊している様に感じました。
    投稿日:2024年10月13日
    この口コミはTripadvisor LLCのものではなく、メンバー個人の主観的な意見です。 トリップアドバイザーでは、投稿された口コミの確認を行っています。
  • junjun
    東京都心, 東京都26,400件の投稿
    バブル評価 5 段階中 4.0
    文京区湯島にある「麟祥院」についての情報を発信していきます。「麟祥院」を訪れたのは2023年10月31日です。「麟祥院」へのアクセスは、都営地下鉄大江戸線「本郷三丁目駅」の4番出口を出て、左方向に進むとすぐに「春日通り」になります。「春日通り」を左折し、370mほど道なりに直進すると、左手に「麟祥院前ポケットパーク」があるのでそこを左折します。50mほど進むと正面に「麟祥院」の山門があります。
    「麟祥院」は、臨済宗妙心寺派の寺院です。「麟祥院」は、「定光禅師集劉渭川」が開山し、三代将軍「徳川家光」の乳母として知られている「春日局」が開基となり、寛永元年(1624年)に「報恩山天澤寺」として創建されました。「春日局」の死後に、「春日局」の法号にちなんで「天澤山麟祥院」と改号したといわれています。寛永11年(1634年)には、寺領300石の御朱印状を拝領し、江戸時代には臨済宗妙心寺派の触頭を浅草海禅寺、高輪東禅寺、牛込松源寺と共に勤めていたといわれています。境内の周囲にカラタチの木を植えていたので、別名「からたち寺」ともいわれていましたが、残念ながら明治期の道路拡張などによりカラタチの生垣はなくなっています。また、「春日局墓所」は、神奈川県小田原市の「紹太寺」(稲葉一族墓所)にもあり、京都市の「金戒光明寺」と「高野山奥の院」に「春日局供養塔」が建立されています。

    01_【一口メモ】
    ⑴ 所在地…〒113-0034 東京都文京区湯島4丁目1−8
    ⑵ 「麟祥院」の概要 ①山号…天澤山 ②院号…麟祥院 ③宗派…臨済宗妙心寺派
    ⑶ 「麟祥院」所蔵の文化財等
    ①十六羅漢図(文京区指定文化財) ②春日局像(文京区指定文化財) 狩野探幽筆・江戸時代
    ③麟祥院文書・春日局書簡(文京区登録文化財) ④春日局墓(文京区登録文化財)

    02_【アクセス】
    ⑴ 電車を利用する場合
    東京メトロ丸の内線「本郷三丁目駅」2番出口から徒歩10分650m
    都営地下鉄大江戸線「本郷三丁目駅」4番出口から徒歩7分500m
    ⑵ バスを利用する場合
    ① [錦糸町駅前(北口)] ⇒[大塚駅前]≪都営バス:都02≫
    ・バス乗り場:「錦糸町駅前(北口)」(1番のりば)
    ・19停留所目(「湯島三丁目」の次の停留所) 所要時間約22分 
    ・9時から17時の間に1時間平均6便~10便
    ・「湯島四丁目」停留所で下車し、「麟祥院」まで徒歩3分200m
    ② [大塚駅前] ⇒[錦糸町駅前(北口)]≪都営バス:都02≫
    ・バス乗り場:「錦糸町駅前(北口)」(1番のりば)
    ・15停留所目(「本郷三丁目駅前」の次の停留所) 所要時間約23分 
    ・9時から17時の間に1時間平均6便~10便
    ・「湯島四丁目」停留所で下車すると、目の前にある「麟祥院前ポケットパーク」の奥の50mほど先にあり  ます。

    03_【「麟祥院」の見どころ】
    ⑴ 「春日局墓石」について
    「春日局」の墓石の四方及び台石には、「夫々穴」があります。これは「死して後も天下の政道を見守り之を直していかれるよう黄泉から見通せる墓を作って欲しい。」という「春日局」の遺言によって建立したものです。「春日局」の強運、又墓石に穴が通っていることから、「願いが通る」と江戸時代から参詣する人が多くいたそうです。
    ⑵ 「東洋大学発祥之地」
    「麟祥院」の山門を入ってすぐ左手に, 茶色の自然石に「東洋大学発祥之地」と刻まれた碑があります。
    明治20年(1887年)に「東洋大学」の前身である私立「哲学館」が創立されました。創立者の「井上円了」は、安政5年(1858年)に新潟県の寺の子として生まれた。明治18年(1885)東京大学文学部哲学科を卒業し、2年後の明治20年(1887年)9月16日に、哲学諸科の教授を目的として私立学校「哲学館」を境内の一棟を借りて開校しました。「哲学館」では、授業以外に講義録を毎月3回発行して、現代の通信教育を行うなど哲学の普及につとめました。「哲学館大学」の名称を経て, 明治39年(1906年)に「東洋大学」と名称を改称しました。現在は 白山(文京区), 朝霞(埼玉県), 川越(埼玉県), 板倉(群馬県) の4ヵ所に キャンパスがあります。そして、「東洋大学発祥之地」記念碑は、1987年9月16日に「東洋大学」創立100周年を記念して建立されました。
    投稿日:2023年10月31日
    この口コミはTripadvisor LLCのものではなく、メンバー個人の主観的な意見です。 トリップアドバイザーでは、投稿された口コミの確認を行っています。
  • norinori-san
    新宿区, 東京都7,567件の投稿
    バブル評価 5 段階中 4.0
    曹洞宗 諏訪山 吉祥寺
    太田道灌が江戸城築城の際、井戸を掘ったところ、「吉祥増上」の刻印が出てきたため、現在の和田倉門のあたりに「吉祥庵」を建てたのが始まりといわれる。徳川家康時代に水道橋際(現在の都立工芸高校一帯)へ移った。明暦3年(1657)明暦の大火で焼失し現在地に移転。関東における曹洞宗の宗門随一の「旃檀林(せんだんりん)」がおかれ多くの学僧が学んだ。第二次大戦でそのほとんどが焼失し、現在は山門と経蔵だけが往時をしのばせる。
    投稿日:2019年9月14日
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  • junjun
    東京都心, 東京都26,400件の投稿
    バブル評価 5 段階中 4.0
    文京区にある「傳通院」についての情報を発信していきます。「傳通院」を訪れたのは2023年5月29日です。「傳通院」へのアクセスは、東京メトロ丸の内線・南北線「後楽園駅」の4a出口を出て、「春日通り」方面に進みます。100mほど進むと「春日通り」になり、横断歩道を渡り左折し、550mほど進むと三つ目の信号(表示名「伝通院前」)があります。横断歩道を渡り、150mほど直進すると正面に「伝通院」の「山門」があります。
    「傳通院」は、浄土宗の寺院です。最初に「傳通院」の歴史を紐解いてみると、「伝通院」は、応永22年(1415年)に、浄土宗第7祖「了誉」が開山したお寺です。その当時は小石川極楽水(現在の小石川4丁目15番)の小さな草庵で、「無量山寿経寺」という名で開創されました。慶長7年(1602年)8月29日に、「徳川家康」の生母「於大の方」が75才で、伏見城で逝去しました。その法名を「傳通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼」と号し、この「寿経寺」を菩提寺としたことから「傳通院」と呼ばれるようになりました。増上寺「源誉上人」が兼務したといわれています。「伝通院」は、「浄土宗関東十八檀林」のひとつで、「増上寺」の次席で、830石の朱印状を拝領し、徳川家の菩提所となり、数多くの末寺を擁していました。「江戸三十三観音霊場12番」、「東京三十三観音霊場25番札所」でもあります。ちなみに、「浄土宗関東十八檀林」とは、江戸幕府が定めた、関東における浄土宗の僧の学問所としての18の寺院のことです。
    では、早速、「傳通院」の「山門」をくぐります。「山門」は、平成24年(2012年)3月に再建されたもので、総ヒノキ造りのきれいな木肌を見ることができます。「山門」から「本堂」に向かう参道の左手には、「ジョセフ岡本供養碑」「如是我聞碑」「指塚」など石碑があります。
    そして、その隣には、「鐘楼」があります。この「鐘楼」は、東京大空襲で多くのものが焼きつくされた中で唯一戦火を逃れました。また、「鐘楼」の「梵鐘」は、天保10年(1839年)に鋳造されたものです。
    次は、「本堂」へと進みます。江戸時代から残っていた「山門」、「本堂」はすべて東京大空襲で焼失してしまいました。「本堂」は、昭和24年(1949年)に再建されました。その姿の美しさは、作家「永井荷風」がエッセイで、パリのノートルダム寺院に例えたとも言われています。また、夏目漱石も小説「こころ」で伝通院を描いています。現在の本堂は、昭和63年(1988年)に2度目に再建されたものとなっています。
    「本堂」の右隣には、「書院」があります。この「書院」は富山県砺波の民家「旧野村邸」を昭和24年(1949年)に移築したものです。そして、その脇には、小規模な日本庭園がありますが、残念ながら立ち入ることはできません。
    最後に、「傳通院」の墓所には、多くの著名人の墓地があります。その中でも、「徳川家」の菩提寺だったので、「徳川家墓所」は、実に立派です。その中でも時代の波に翻弄された3人の女性、「於大」、「千姫」、「孝子」の墓は「文京区指定史跡」になっています。また、「観音堂」付近に墓地の案内図があるので、比較的簡単に探すことができます。また、「文京区指定史跡」の「於大」、「千姫」、「孝子」の墓の前には看板があります。

    01_【一口メモ】
    ⑴ 所在地…〒112-0002 東京都文京区小石川3丁目14 電話:03-3814-3701
    ⑵ 「傳通院」の概要 ①山号…無量山 ②院号…伝通院 ③寺号…寿経寺 ④宗派…浄土宗
    ⑶ 御本尊…阿弥陀如来
    伝通院所蔵の文化財
    ①無量山境内大絵図及び小絵図(文京区指定文化財) ②於大墓(文京区指定文化財)
    ③千姫墓(文京区指定文化財) ④孝子墓(文京区指定文化財)

    02_【アクセス】
    東京メトロ丸の内線・南北線「後楽園駅」4a出口からから徒歩11分800m
    投稿日:2023年6月8日
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  • junjun
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    文京区にある「浄土宗常光山源覚寺(こんにゃく閻魔)」についての情報を発信していきます。「浄土宗常光山源覚寺(こんにゃく閻魔)」を訪れたのは2023年3月13日です。「源覚寺(こんにゃく閻魔)」へのアクセスは、都営地下鉄大江戸線・都営地下鉄三田線「春日駅」のA5出口を出るとすぐ交差点(信号表示名:「西片」)があります。その交差点を左折し50mほど直進すると「源覚寺(こんにゃく閻魔)」が正面にあります。
    ビルの谷間にある「源覚寺」は、寛永元年(1624年) に「定誉随波上人」(後に増上寺第18世)によって創建されました。最も有名なのは「こんにゃく閻魔」と呼ばれる閻魔像です。この像は鎌倉時代の作と言われ、非常に古い座像で、眼病平癒の「こんにゃくえんま」として親しまれています。また、「源覚寺」の境内には、歯痛緩和のお地蔵さんである「塩地蔵」、「小石川七福神」の一つである「毘沙門天」、そして奇跡的な生還を果たした「汎太平洋の鐘(Pan pacific bell)」もあります。「汎太平洋の鐘(Pan pacific bell)」が何故奇跡的かというと、この鐘は、昭和12年(1937年)に当時大日本帝国領だったサイパン島「南洋寺」に寄進しましたが、太平洋戦争後に所在不明になりました。その後アメリカで発見され、昭和49年(1974年)にオークランド市から返還されたというものです。江戸時代には四度ほど大火に見舞われ、特に天保15年(1848年)の大火では本堂などがほとんど焼失したといわれていますが、「こんにゃくえんま像」や「本尊」は難を逃れました。その後は、関東大震災や第二次世界大戦からの災害からも免れられました。現在の本堂は、昭和54年(1979年)に再建されたものです。そして、ここで最も有名な「こんにゃく閻魔」についてこの由来を紐解いてみると、一般的に閻魔さまは、冥界にあって亡くなった人の生前の罪業を裁断する十王のうち、最も知られているひとりです。ただし、「源覚寺」の「閻魔さま」の右目部分が割れて黄色くなっているのが一番の特徴です。これには昔からの伝承があり、宝暦年間にまで時代を遡ります。眼病を患ったある老婆が、閻魔像に治癒祈願の参拝をおこなっていました。すると夢枕に閻魔大王が現れ「満願成就となった暁に、片方の目をお前にやろう」と言った。そして21日間の祈願を終えた時、老婆の片方の目が突然見えるようになり、お礼参りに行くと閻魔像の右目がつぶれていた。老婆はその功徳に感謝し、自分の好物であったこんにゃくを以後口にせず、閻魔像に供え続けたということです。やはり、何事も続け信心することが大切だということだと思います。万時がうまくいくとは限りませんが、一つでも願いが通ずればいいですね。片方の目のない「こんにゃく閻魔」をみていると可愛らしくさえ思えてきます。

    01_【一口メモ】
    ⑴ 所在地…〒112-0002 東京都文京区小石川2丁目23−14 電話:03-3811-4482
    ⑵ 本尊…阿弥陀三尊(阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩)」
    ⑶ 源覚寺の概要
    ① 山号…常光山 ② 院号…西向院 ③ 寺号…源覚寺

    02_【アクセス】
    ⑴ 東京メトロ丸の内線「駅」4a出口から徒歩5分350m
    ⑵ 都営地下鉄大江戸線・都営地下鉄三田線「春日駅」A5出口から徒歩2分140m ★最寄駅
    ⑶ JR総武線「水道橋駅」出口から徒歩15分1100m
    投稿日:2023年3月23日
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  • akashi-rokuro
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    金刀比羅宮のお守りをお納めしたいと思っていましたが、香川県まで行く時間が取れないので、どうしようかと思っていたところ、東京分社があることを知りました。東京分社の場所は、白山通りを挟んで東京ドームシティの向いにあるので、水道橋駅からすぐです。お参りをして、お守りをお納めしようとしたところ、納め所が見当たらなかったので、社務所のインターフォンを押して、神主さんに受け取ってもらいました。私が納めたお守りと全くお同じお守りがここでも販売されていたので、安心してお納めできました。
    投稿日:2023年2月28日
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  • v35p_trip
    札幌市, 北海道20,284件の投稿
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    こちらは、六義園近くにあるこじんまりと神社です。
    本殿は23段の急な階段を上った先にあり、お年寄りには厳しいです。
    境内には駒込ナスの説明板がありました。
    投稿日:2022年11月13日
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  • junjun
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    文京区春日にある「牛天神北野神社」についての情報を発信していきます。「牛天神北野神社」を訪れたのは2023年12月22日です。当日は都バスの都02系統で蔵前駅前から乗車し、「富坂上」停留所で降車しました。「牛天神北野神社」へのアクセスは、「富坂上」停留所で降車し、バスの進行方向と同じ方向へ70mほど進むと、「表示名:富坂上」があります。その手前の角を左折し、道なりに280mほど進むと左手に駐車場があり、「牛天神北野神社」もあります。ただし、こちらはあくまでも裏手なので、「牛坂」を道なりに90mほど下ると左手に「牛天神北野神社」の入口あります。少し険しい石段を上ると「牛天神北野神社」の境内が目の前に現れてきます。
    「牛天神北野神社」の歴史と概要を紐解いてみると、「牛天神北野神社」は、元暦元年(1184年)に「源頼朝」によって創建されました。その契機となったのは、鎌倉時代に、「源頼朝」が当地にあった岩に腰掛け休息したとき、夢に牛に乗った「菅原道真」が現れ「二つの喜びがある」と告げられました。そして、武運満足の後は社を営むべしとのお告げがあり、夢から覚めると牛の形をした石がありました。その後、「頼家」が生まれ、「平氏」を西に追うことができ戦にも勝利しました。「源頼朝」は、報恩感謝でこの岩を祀り「牛天神」を創建しました。それ以来、境内にある牛の形をした岩を撫でると願いが叶うといわれ、撫で岩の発祥となりました。御祭神は、学問の神様として有名な天神様「菅原道真」です。

    《「牛天神北野神社」のお薦め順路》
    ①「お御籤掛け」、「絵馬掛け」、「文海堂號山先生の碑」⇒②「手水舎」⇒③「御神木」の「木斛」⇒
    ④「中島歌子の歌碑」、「筆塚」⇒⑤「水戸光圀公」が奉納した「狛犬」⇒⑥「牛石」⇒
    ⑦「ねがい牛」⇒⑧「社殿」⇒⑨境内社の「太田神社」と「高木神社」

    それでは早速「牛天神北野神社」を参拝したいと思います。神社の入口には、「北野神社」の社柱碑が右手にあり、その後ろには梅鉢紋が刻まれた「神門」があります。その先の石段には、「北野神社」と別名である「牛天神」と描かれた幟が階段の両側に等間隔で配置されています。そして、その先は境内までは、木々がトンネルのようになった急勾配の階段があります。森林浴しているような緑に囲まれた素敵な参道です。
    息を切らして頂上の「石鳥居」をくぐると、左手に御朱印やお守りなどを頂ける「授与所」と境内社である「太田神社」と「高木神社」、正面には牛の形でくり抜いた珍しい「お御籤掛け」と「絵馬掛け」があり、その真ん中に「文海堂號山先生の碑」と刻まれた石碑もありました。
    そして、「絵馬掛け」の先に進むと、「手水舎」があります。「牛天神北野神社」の「手水舎」は、平成14年(2002年)に「菅公昇神1100年」を記念して、氏子、崇敬者より奉納されたものだそうです。この「手水舎」の屋根や柱には備前の木を、「鉢」と「花びら」には御影石を使用し、宮大工と彫刻家「石田榮」の手によって造営された手水舎です。暗くなるとライトアップされ、とても神秘的な雰囲気を漂わせているそうです。
    「手水舎」の反対側には、「御神木」の樹齢100年超の「木斛」が境内のほぼ中央あります。真剣に心をこめてお願いすると必ず願いが叶うといわれています。
    「御神木」の奥には、「中島歌子の歌碑」と「筆塚」が境内の一角に展示してあります。「中島歌子の歌碑」は、歌子の死後、明治42年(1909年)に門下生によって建立されました。歌碑には、「雪のうちに 根ざしかためて 若竹の 生出むとしの 光をぞ思ふ」と刻まれています。その意味は、「雪の降り積もった中で、深く根を入れている若竹が、すくすくと光り輝いて伸びている」ということだそうです。「筆塚」は、字が上手になりますようにと、使用した筆又は、ペン等を納めていただくものです。
    さて、いよいよ「社殿」へと向かいます。「社殿」の手前にある石鳥居の前には、「狛犬」が邪気を寄せ付けないために睨みをきかせています。なんとこの「狛犬」は、「水戸光圀公」が奉納したそうです。そして、さらに進むと「社殿」の手前に、「牛石」があります。この「牛石」は、「伯牛」と呼ばれ、天神様をお祀りしているすべての神社にあるそうです。
    「社殿」に向かって左手の「牛石」の左側には、「ねがい牛」があります。「ねがい牛」は、境内にある「なで石」(自然石)で、「源頼朝」が元暦元年(1184年)の奥州へ東征の途中に、この地に休んだときに、夢の中に牛に乗られた「菅原道真」が現れ、願いが叶うことを告げられました。武運満足の後は社を営むべしとあり、夢から覚めると牛の形をした石があったそうです。そして、頼家が生まれ、平氏を西に追うことができたそうです。その後、ここにあった牛に似た石を御神体とし、「大宰府天満宮」より御魂を勧請されたと伝えられているそうです。これが「撫で岩」の発祥で「牛天神」の始まりです。撫でるとねがいが叶うと言われており、今日まで多くの人々に信仰されているそうです。また、ガーゼを境内のお水で濡らし、ねがい牛の口元に触って気を入れ、ビニール袋などに入れて持ち帰り、寝る際に枕の下に入れると、2つの願いが叶うと言われています。「ねがい牛」をよく見ると眠った牛の姿に似ていることも、「牛石」と呼ばれる理由です。石の左側が口元で、線状のくぼみが、とじた瞳になっています。「社殿」に参拝する前に、「御神木」、「牛石」、「ねがい牛」などにいろいろとお願いしてしまい、何をお願いしていいか迷ってしまいましたがシンプルに健康第一を願いました。
    「社殿」の参拝を終え、左隣にある境内社の「太田神社」と「高木神社」も参拝しました。
    「太田神社」と「高木神社」は、芸能の神「天鈿女命」と道の神「猿田彦命」の御夫婦と「宇迦御魂命」を祀っています。芸能上達、開運招福のご利益があるとされています。
    小さい神社ながら見どころの多い神社でした。次に、来る途中にあった「西岸寺」と「常泉院」に立ち寄り、帰路に着こうと思っています。

    01_【「牛天神北野神社」の一口メモ】
    ⑴ 所在地…〒112-0003 東京都文京区春日1丁目5−2  電話:03-3812-1862
    ⑵ 御祭神…「菅原道真」
    02_【「牛天神北野神社」へのアクセス】
    ⑴ 電車を利用した場合
    ① 東京メトロ丸の内線・南北線「後楽園駅」1番出口から徒歩9分650m
    ② 都営地下鉄大江戸線・三田線「後楽園駅」出口から徒歩10分700m
    ⑵ バスを利用した場合
    ① [錦糸町駅前(北口)] ⇒[大塚駅前]≪都営バス:都02≫
    ・バス乗り場:「錦糸町駅前(北口)」(1番のりば)
    ・30停留所目(「茗荷谷駅前」の次の停留所) 所要時間約33分 
    ・9時から17時の間に1時間平均6便~10便
    ・「富坂上」停留所で下車し「牛天神北野神社」まで徒歩5分350m
    ② [大塚駅前] ⇒[錦糸町駅前(北口)]≪都営バス:都02≫
    ・バス乗り場:「錦糸町駅前(北口)」(1番のりば)
    ・11停留所目(「伝通院前」の次の停留所) 所要時間約17分 
    ・9時から17時の間に1時間平均6便~10便
    ・「富坂上」停留所で下車し「牛天神北野神社」まで徒歩5分350m
    ③ [池袋駅東口] ⇒[東京ドームシティー]≪都営バス:都02乙≫
    ・バス乗り場:「池袋駅東口」(5番のりば)
    ・14停留所目(「伝通院前」の次の停留所) 所要時間約18分 
    ・9時から17時の間に1時間平均1便~3便
    ・「富坂上」停留所で下車し「牛天神北野神社」まで徒歩5分350m
    ④ [東京ドームシティー] ⇒[池袋駅東口]≪都営バス:都02乙≫
    ・バス乗り場:「池袋駅東口」(1番のりば)
    ・2停留所目(「春日駅前」の次の停留所) 所要時間約3分 
    ・9時から17時の間に1時間平均1便~3便
    ・「富坂上」停留所で下車し「牛天神北野神社」まで徒歩5分350m
    ⑤ [小滝橋車庫前] ⇒[上野公園]≪都営バス:上69≫
    ・バス乗り場:「小滝橋車庫」(東京都交通局小滝橋自動車営業所)
    ・18停留所目(「伝通院前」の次の停留所) 所要時間約27分 
    ・9時から17時の間に1時間平均4便
    ・「富坂上」停留所で下車し「牛天神北野神社」まで徒歩5分350m
    ⑥ [上野公園] ⇒[小滝橋車庫前]≪都営バス:上69≫
    ・バス乗り場:「上野公園」(13番のりば)
    ・6停留所目(「春日駅前」の次の停留所) 所要時間約11分 
    ・9時から17時の間に1時間平均4便
    ・「富坂上」停留所で下車し「牛天神北野神社」まで徒歩5分350m

    03_【「牛天神北野神社」の見どころ】
    ⑴ 「ねがい牛」
    「菅原道真」は、生前大変牛を可愛がられたことでも知られています。「牛天神北野神社」境内にある「なで石」(自然石)は、「源頼朝」が元暦元年(1184年)の奥州へ東征の途中、この地に休んだときに、夢の中に牛に乗られた「菅原道真」が現れ、願いが叶うことを告げられました。武運満足の後は社を営むべしとあり、夢から覚めると牛の形をした石があった。その後、頼家が生まれ、平氏を西に追うことができたそうです。その後、ここにあった牛に似た石を御神体とし、大宰府天満宮より御魂を勧請されたと伝えられているそうです。これが「撫で岩」の発祥で「牛天神」の始まりです。撫でるとねがいが叶うと言われており、今日まで多くの人々に信仰されているそうです。また、ガーゼを境内のお水で濡らし、ねがい牛の口元に触って気を入れ、ビニール袋などに入れて持ち帰り、寝る際に枕の下に入れると、2つの願いが叶うと言われています。「ねがい牛」をよく見ると眠った牛の姿に似ていることも、「牛石」と呼ばれる理由です。石の左側が口元で、線状のくぼみが、とじた瞳になっています。
    ⑵ 「牛石」
    この「牛石」は、「伯牛」と呼ばれ、天神様をお祀りしているすべての神社にあります。
    ⑶ 「御神木」
    「御神木」は、樹齢100年超の「木斛」(もっこく)で境内のほぼ中央あります。真剣に心をこめてお願いすると必ず願いが叶うといわれています。
    ⑷ 「筆塚」
    「筆塚」は、字が上手になりますようにと、使用した筆又は、ペン等を納めていただくものです。
    ⑸ 「手水舎」
    「牛天神北野神社」の「手水舎」は、平成14年(2002年)に「菅公昇神1100年」を記念して、氏子、崇敬者より奉納されたものだそうです。この「手水舎」の屋根や柱には備前の木を、「鉢」と「花びら」には御影石を使用し、宮大工と彫刻家「石田榮」の手によって造営された手水舎です。暗くなるとライトアップされ、とても神秘的な雰囲気を漂わせているそうです。
    ⑹ 「中島歌子の歌碑」
    「中島歌子の歌碑」は、歌子の死後、明治42年(1909年)に門下生によって建立されました。歌碑には、「雪のうちに 根ざしかためて 若竹の 生出むとしの 光をぞ思ふ」と刻まれています。その意味は、「雪の降り積もった中で、深く根を入れている若竹が、すくすくと光り輝いて伸びている」ということだそうです。ちなみに、「中島歌子」は、安藤坂の歌塾「萩の舎」の塾主でした。門下には、「梨本宮妃」、「鍋島侯夫人」や、「前田侯夫人」など、上流、中流層の婦人1,000余人がいました。「樋口一葉」、「三宅花圃」らは、その門弟でした。
    ⑺ 境内社「太田神社」と「高木神社」
    「太田神社」と「高木神社」は、「牛天神北野神社」の境内にあり、芸能の神「天鈿女命」と道の神「猿田彦命」の御夫婦と「宇迦御魂命」を祀っています。芸能上達、開運招福のご利益があるとされています。境内の「太田神社」は、かつて貧乏神といわれる「黒闇天女」を祀っていました。小石川にある旗本が住んでいて、不幸はなくとも貧乏であったが、ある晩夢の中に貧乏神が現れ、「長い間居心地がいいのでこの家にいたが、このたびよそへ移ることにした。赤飯と油揚げを供えて祀れば礼として福徳を授ける。」と言ったそうです。その通りにすると万事よいことづくめで豊かになりました。この話を瓦版に載せたところ、旗本の邸内にあった「太田神社」に、多くの人が訪れるようになったそうです。その後も参拝の人が途切れることが亡くなったので、「太田神社」は旗本邸内から場所を移すことに。「北野神社」内で祀られるようになりました。1日、15日、25日には行列ができるほど江戸庶民に信仰され、現在も赤飯・油あげが供えられているそうです。そして、旗本は神像を彫り牛天神に納めたといわれています。
    投稿日:2023年12月28日
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  • yamabiko_yoki
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    傾斜地のためお参りは会館脇の階段を上っていく。2階に縄で縛ると願いが叶うという縛られ地蔵があり、本堂は3階。庫裡は2階だが新築の畳の匂いが心地よかった。
    投稿日:2019年9月15日
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  • junjun
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    台東区谷中の「安立寺」についての情報を発信していきます。「安立寺」を訪れたのは2023年8月1日です。「安立寺」へのアクセスは、東京メトロ千代田線「千駄木駅」の1番出口を出て左方向に進むとすぐに信号(表示名「団子坂下」)があります。その信号の横断歩道を渡り、右折して信号の道路の反対側に渡ります。「ミスタードーナッツ千駄木ショップ」のがあり、ゆるやかな「三崎坂」になりますので、それを470mほど上ると、墓石・石材店の「石六」があります。その角を左折し、道なりに100mほど進むと左手に「安立寺」の「山門」があります。
    「安立寺」は、日蓮宗の寺院です。「安立寺」は、京都「本法寺鶴林院日養」が、自身の隠居寺として寛永7年(1630年)に創建したといわれています。また、「安立寺」は、茶道江戸千家初代宗主「川上不白」の菩提寺でもあります。「山門」を潜り、「参道」をまっすぐ進むと「本堂」があります。「本堂」の隣には、「擁護殿」があります。また、「手水舎」の代わりの「つくばい」がありました。

    01_【一口メモ】
    ⑴ 所在地…〒110-0001 東京都台東区谷中5丁目3−17 電話:03-3821-3813
    ⑵「安立寺」の概要 ①山号…常観山 ②寺号…安立寺 ③宗派…日蓮宗
    ⑶ 御本尊…釈迦牟尼佛
    ⑷「安立寺」の文化財・寺宝等…下村観山墓(台東区有形文化財)

    02_【アクセス】
    ⑴ 東京メトロ千代田線「千駄木駅」1番出口から徒歩9分600m
    ⑵ JR「日暮里駅」北改札口から徒歩7分550m
    ⑶ 東京メトロ千代田線「根津駅」1番出口から徒歩14分1100m

    03_【「安立寺」の見どころ】
    ⑴ 「下村観山墓」
    「下村観山」は、明治から昭和初期にかけて活躍した画家です。
    明治から昭和初期にかけての画家。本名は「晴三郎」で明治6年(1873年)に和歌山県に生まれました。幼少から絵を好み14年で上京し、「加納芳崖」や「橋本雅邦」に師事しました。東京美術学校に学び、明治27年(1894年)に卒業し、同校助教授となりました。明治31年(1898年)に、「岡倉天心」の日本美術院創立に参加し、「菱田春草」、「横山大観」らと活躍しました。
    投稿日:2023年8月2日
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  • higashinomori
    東京都心, 東京都1,778件の投稿
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    「小石川大神宮」をご存じでしょうか?
    天照皇大神を永久に奉斎するため伊勢神宮より皇大御神の別大麻たる特別御神璽を奉戴している神社で新社殿建設のため移設され春日通り中央大学理工学部向かいにあります。今年の秋ごろには完成予定のようです。
    仮社殿は小ぢんまりとしていますが参拝もできます。神主さんもいらっしゃいました。また新しい社殿完成した際には参拝に伺いたいと思います。
    投稿日:2020年4月18日
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