江戸時代、明暦年間の創立。旧池尻村と池沢村の守り神でした。昔から「火伏せ稲荷、子育て稲荷」として信仰を集めていました。また「涸(か)れずの井戸」という霊水があり、神の薬といわれたりしましたが、旅人や住民たちからも頼られていたそうです。いまは手水舎として使われています。
江戸時代、明暦年間の創立。旧池尻村と池沢村の守り神でした。昔から「火伏せ稲荷、子育て稲荷」として信仰を集めていました。また「涸(か)れずの井戸」という霊水があり、神の薬といわれたりしましたが、旅人や住民たちからも頼られていたそうです。いまは手水舎として使われています。
池尻大橋駅から徒歩で向かうことがでにます。十字路のとところにあり、ちょうちんが目立っておりました。こちらの駅に用事があり時間潰しにて立ち寄りました。
池尻大橋駅から歩いて行けます。閑静な住宅街の中にぽつんとあり散歩コースにも良いです。提灯がたくさんあって風情が感じられました。
昭和女子大学人見記念講堂でライブを見た帰り道、夜に池尻大橋駅まで歩いていたらこちらの神社がありました。祭礼が近いのでしょうか、たくさんの提灯がありその灯りがかなり目立っていました。
世にお稲荷様と申し上げている稲荷神社は宇迦之御魂神(ウガノミタマノカミ)をお祀りしたもので、今から約1300年前の昔、和銅四年の二月の初午の日に京都の伏見に稲荷神社が鎮座したのが始まりです。この神は、「稲がなる」イナリの別名が示すように五穀の成育や全ての産業を育成する広大な御神徳のあられる神様ですから、あらゆる人々の信仰をうけ、全国各地の神社や邸内に祀られています。
当池尻稲荷神社は、今から約350年前の明暦年間(江戸時代の初期)に旧池尻村・池沢村の両村の産土神(ウブスナガミ)として創建鎮座になったもので、それより村の共同生活と信仰の中心として現在に至りました。俗信仰として古くから「火伏せの稲荷」「子育ての稲荷」として霊験あらたかと伝えられており、又、江戸時代の随筆集にも池尻村の産土神は特に氏子の加護をする旨の奇談が掲載されています。
当時は大山街道(現在の旧道)のほとりに、常光院の一隅に勧請されたもので、村民の信仰は勿論のこと、当時矢倉沢往還(今の二子玉川方面道路)と津久井往来(今の上野方面バス道路)の二つの街道からの人々が角屋、田中屋、信楽屋の三軒の茶屋(三軒茶屋の起源)で休憩して江戸入りする道筋にあり、又、江戸から大山詣での人々が大坂(現在、目黒区青葉台通り、三菱UFJ銀行青葉台分館を経て大橋への坂道、当時は大変な急坂で農民泣かせといわれた)を下った道筋で道中の無事を願い、感謝する人々の信仰が篤く、現今も遠方の崇敬者が多いのは当時からの御神徳のあらわれであります。
なお、境内にある手水舎の井戸水(涸れずの井戸)は京都伏見の薬力明神の神託による霊水として知られております。(頒布の資料より)
池尻大橋で納豆ランチ後、向かいに見えた「池尻稲荷神」に行ってみました。
案内によると“火伏せの稲荷、子育て稲荷”だそうな。石造りの鳥居の脇には紅白の提灯がたくさん吊るされております。国道246号という交通量の非常に多い道路脇にある神社ですが、鳥居をくぐって本殿に進むと、そこは静寂につつまれた別世界。本殿は決して大きくもなく、豪華でもありませんが喧騒の中のオアシスって感じで静かにお参りできました。