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ここから神風が飛びだったと思うと・・・こういう場所を残してくれているフィリピンの人達にお礼が言いたい。
ゲートのスタッフに、入るには、クラーク空港の施設で許可証の発行が必要と言われて、空港の施設に行ったら、許可書を貰うのにも手続きが必要だからすぐには入れないと言われてしまいました。
許可書を発行するには、空港の偉い人に手紙を書いて、なぜ入りたいのか記入が必要とのこと。
どのように皆さんが行かれているのか詳しく聞きたかったです。
East Airfield(東飛行場)に続いて終戦記念日に訪れた。
管理地区内にあり警備員のいるゲートを通過する必要がある。
ゲートを入ると間道のような細い道を進み、更に心もとない橋を渡ると少し開けた空地のような所にロープで繋がれた馬がいた。ここが西飛行場跡地だった。それを示すように奥に演壇のようなモニュメントがあり、中央に飛行機の翼を模したような台があった。奥の壁面には日本語で『第二次世界大戦に於いて、日本神風特別攻撃隊が最初に飛立った飛行場』と記されている。またその左右には日本とフィリピンの国旗が描かれていた。
実際に1944年10月21日この西飛行場から最初の攻撃隊が出撃した。しかし記録をみるとこの出撃は敵艦隊を発見できず帰還している(その4日後東飛行場から出撃した敷島隊が実際に攻撃を敢行している)。
中央の台には献花されたと思われる枯れ果てた花と燃え残った線香あった。日本から持参した線香に火を付け焼香させて貰った。東飛行場とは全く趣が異なり俗世間から隔離されたような雰囲気だった。
特攻攻撃を無謀な作戦とか狂気の戦術と評価し否定することは簡単だが実際にそれを遂行し殉じた人たちを決して貶めてはいけないと思った。線香に火を着けながら70数年前ここから特攻攻撃という作戦で飛び立った二十歳前後の先人たちはどんな思いと覚悟だったのだろうか?とふと考えてしまった。そして彼らを思いながら手を合わせた時に浮かんだ言葉は、『ありがとうございます』だった。
ここから神風が飛びだったと思うと・・・こういう場所を残してくれているフィリピンの人達にお礼が言いたい。
ホテルのオーナーの運転で、East に続いてWestも回ってもらいました。アメリカ軍の管轄のため警備員の許可をもらい、先導されながら慰霊碑にたどり着きました。きれいに整備された敷地に、零戦が翼を広げているようでした。敷島隊はじめ、特攻隊の方々のご冥福を祈り、かつ日比友好を祈りつつ、ホテルに戻りました。今回は999hotelのオーナーに大変お世話になりました。
今年は約5年ぶりぐらいの訪問でした。以前は毎年10月25日に行っていましたが、大きな台風の影響でバスで橋を渡ることができないので遠慮していましたが、今年はワゴン車だったので行けました。ただ空軍の管轄に変わったとかで、許可が必要でいきなり行っても入れないと言われたのですが、日本人だという事を話したら、簡単に入れてくれました。入口にいる人次第のようにも思いました。中に入ると小さな像がど真ん中に増えており、牛が三頭草を食べていました。
公共交通機関はありません。
また、基地だか飛行場の敷地だか、看板も案内もなく、現地に行くには信用できるドレイバーとGoogle Mapが必要。